Vol.15:麺屋わっしょい

2010年、環状線の寺田町駅近くに一軒のラーメン屋さんがオープンした。屋号は麺屋わっしょい。店内には祭りの音楽が流れ、商品の1つは「男の根性黒醤油」!? 「個性的で勢いある店が現れたな~」と思ってると瞬く間に行列店となり、それから2号店、居酒屋と展開していく。その他にも大阪の麺業界を盛り上げるイベント「大阪好っきゃ麺」の立ち上げから深く関わり、そして生野区のだんじり祭りもしている。人材不足でどの店も困っているこの業界で、これだけ多方面で活躍してるのは驚異的なこと。一体、どんな方なんだろう? 最近オープンした最新の系列店「麺屋 団長」で少し時間を頂いた。ますます勢いにのる株式会社わっしょいグループの代表取締役 西原忠宗さんにKRK直撃インタビュー!


─業界に入るきっかけは?

「某社の営業マンをしてたんですが営業が上手く取れなくて、ちょっと病んできてたんです。その頃にラーメンの食べ歩きにハマっていまして、当時は『あそこに美味しいラーメンがある』って口コミを聞いたらすぐに食べに行っていました。そんな食べ歩きの中、ある時、玉出駅近くにあった『博多ラーメン 一休』って店に行き、そこの博多ラーメンを食べた時に『メッチャ麺が美味しいやんけ!』って感動しました。たまたま店の外に出たらごみ袋から麺の袋が見えて、ミネヤ食品さん(公式HP)の麺って知りました。それで『面白いな~』って思い、ミネヤ食品さんにすぐに電話しましたね。」

 

─ なぜラーメン屋さんじゃなく、製麺屋さんの方へ?

「一休さんで食べた博多ラーメンの麺がとにかく美味しかったんですよね。細麺で。『わぁ~、麺が美味しい!』って。正直『ラーメン屋さんで働きたい』ってのは全く頭に無かったですね。営業が好きだったので『ミネヤ食品さんで営業できたらいいな~』って電話したんですが、営業職が空いていませんでした。当時のミネヤ食品さんはまだ営業マンを雇えるって感じじゃなくて、社長自ら営業を廻ってる会社だったから。それで『配送なら空いてるよ』ってことだったので、配送で働き始めました。26~27歳くらいだったかな?」

─ ミネヤ食品では?

「配達を続けて、ルートセールスもやっていいってことで自分の既存店のお客さんに『こんな麺がありますよ』とか紹介もするようになっていきました。当時の大阪はまだラーメン専門店が少なくて、中華屋さんでラーメン食べるって時代でした。だからあんまりお客さんもラーメンに力を入れてる人もいなかったですし、自家製麺もほぼ無い時代でした。それで『飛び込み営業もしたいな』って思ってて、『やはりラーメンを食べないとあかんな』って。『このスープにはこういう理由でこんな麺が合う』とか説明できないといけないので、勉強のためにラーメン食べ歩きの回数も増やしていきましたね。」

 

─ 当時の取引先は?

「駆け出しの頃の取引先はもうほぼ無くなっていますね。僕が取引してて残ってる有名店では四神伝さん(守口市)や金久右衛門さん。金久右衛門さんにはオリジナル麺を作りましたからね。まだ金久右衛門さんがドーンと有名になる前の頃です。」

 

─ 仕事は順調だった?

「最初、営業が全然取れなかったんです。全然!今思うと恥ずかしい営業をしていましたね(笑)。当時の大阪は太陽製麺所さん(公式HP)がとにかく強かったので、なかなか営業を取れなかったし、『麺を変えよう』って店主もなかなかいませんでしたね。当時のラーメン屋さんは麺を変えて、売り上げに影響するって考えもなかったと思う。それで『勉強を始めよう』と思って、営業行く前に朝5時~6時に出社して製麺の方も手伝うことにしました。当時、ミネヤ食品には70種類くらいの麺があったので、この麺にはこんなスープかな?とか薀蓄を言えるようになるために。」

 

─ それから?

「その営業時代に取引先と2つの悲しい出来事があって、それをきっかけに『これは本気で営業しないと。この人達は命をかけて商売してはる』って気づかされました。麺を売るのも必要ですが、もっと役立つことがあるんじゃないかな?って思い始めましたね。それがミネヤ食品さんでの10年目の頃だったかな?例えば、お客さんが『蓮華いいのないか?』って言われたら探してきたり、『丼の良いのないか?』とか困ってることを手伝っていた。メニューを作ったりもしていましたね。当時はラーメン屋さん同士の横の繋がりが無い時代でしたので、僕が橋渡しになっていて、情報をいろいろ渡すようにしていました。それから紹介が増えてきて、営業成績もぐーんと上がっていきました。」



─ 方向性のズレ?

「順調に営業成績も上がっていって給料も良くなっていましたが、ただ会社の方向性と自分の考えとズレが出てきました。会社からは『チェーン店に営業をかけてくれ』って言われていて、僕は個人店が好きだった。顔と顔を合わせて話せるし。チェーン店はオーナーと会えることはまずなくて、あまり麺に本気出す人がいない雇われ店長と話すくらいだし。考え方のズレですね。そして、それなら自分で飲食店をしたら、製造から接客から末端のお客さんまで全て見れるんじゃないか?って思い始めました。ある人との出会いでその気持ちが更に大きくなったんです。」

 

─ ある人?

「ある人ってのがKRKさんのフスマにかけろ店主さんへのインタビュー(コチラ)にも登場していた池澤さんって方です。当時、寝屋川市にちぇりー亭って店がオープンするってことで営業で行ったんです。結局、ウチの麺は使ってもらえなかったんですが、オーナーの池澤さんって方と話してたら『うわ、こんな人がおるんや?』って波長が合って、麺の取引は無かったんですが定期的に通って話すようになっていきました。実藤さん(現・フスかけ店主)が店長をしていた頃です。ミネヤ食品さんでは良い給料をもらってたし家族もいましたから、なかなか決心できず悩んでいた僕の背中を池澤さんがポーンと押してくれましたね。『踏み出したら、前が絶対に開けるから』って言ってくれて。それで『自分でやっていく』と決心しました。ミネヤ食品さんでは約15年間ほどお世話になりました。」



 ─ 自分のやりたいことへ?

「僕は居酒屋をしたかったので、半年間、もつ鍋屋さんで無償で修行させてもらうことになりました。『ラーメン屋がやりたい』ってのはまだ全く無かったです。ミネヤ食品時代にラーメン屋さんの過酷な労働を目の当たりにしてきてたので。それから、その居酒屋さんが『串焼き屋を新たに始める』ってことで、正社員として雇ってもらえることになり串焼き屋の方で働き始めました。しかし、その店が3ヶ月で潰れてしまったんです。」

 

─ 次に何をしましたか?

「それから居酒屋のオーナーと池澤さんが『この場所でラーメン屋をしよう』って話になり、その店の屋号が『麺屋 団長』になりました。安治川口駅の近くですね。そのラーメン屋で僕がミネヤ食品の営業時代、ちぇりー亭でやって好評だった『あの限定ラーメンでしよう!』って話になりました。それが平成18年くらいかな?」

 

─ あの限定とは?

「昔、携帯サイトの超らーめんナビってサイトで『大阪のいろんなラーメン屋さんに一ヶ月限定をしてもらう』って企画がありまして、たまたま僕がそのサイトの編集長と交流があったので、僕が『知り合いの幾つかの店に声かけましょうか?』ってことになって、その1つがちぇりー亭(寝屋川)でした。ちぇりー亭さんから『面白い醤油ラーメンがやりたい。何かいい醤油ないかな?』って聞かれたので、僕の当時の取引先だった京都の『日本一ぱこぱこ』のマスターから紹介してもらい気に入って、僕自身も家で使ってた山崎醸造さんのイナサ醤油(公式HP)を紹介しました。『ぱこぱこ』の店主さんは本当にいろんな食材の勉強をしていて、使っていない醤油とかもいろいろ持ってはりましたね。で、ちぇりー亭さんは『この醤油は甘いし、美味いな!』ってことで、これで超らーめんナビの限定を作ることになりました。それからいろんな人と話し合って、このラーメンに背脂入れて、ニンニクをガッツリ効かせてってとかで出来上がったのがこの限定。」

─ どんなラーメン?

「今、ウチで出してるのとは全然違いますね。名前も『メッチャお下品レボリューション』って名前だったし(笑)。今のより3倍ほど背脂やニンニクが入ってたし、メッチャお下品なラーメンでした。凄く特化したラーメンでしたね。その限定を始めたら、1か月限定だったけど、途中からその限定を食べるためにオープン前から何十人って行列ができるようになっていました。僕らも驚いて、池澤さんと『この限定でいつか専門店ができたら』って話をしていたんですよね。それが数年後に神戸ちぇり~亭で実現したってわけです。その時に私が麺のプロデュースで作ったのが現在のわっしょいの麺です。当時の神戸ちぇり~亭(三田)は約10席で週3日夜の3時間程度しか営業してなかったのですが、私は『絶対このラーメンは 人気が出る!』と思い、PB(プライベートブランド)で麺を作成しました。でも週3日の数時間営業なので出来た麺のほとんどを捨てるということになり(ロッドが200食程出来るので)、当時工場長にメッチャ怒られたことを覚えてます(苦笑)。その麺もNB(自社製品)となり、現在、ミネヤ食品の麺の中でTOP3の売り上げになってるそうです。」

 

─ 麺屋 団長をオープンして?

「まだ二朗系が無かった頃なので、デカ盛りが好評でしたね。店内でしてた学ラン着たパフォーマンスもメディアによく取り上げられていましたしね。ラーメン作るのは初めてだったので、スープの取り方とかもオープン前に池澤さんにしっかり教えてもらいました。団長では「世の中のラーメン屋さんを全て応援するような店。そういう思いでして欲しい」ってコンセプトでした。パフォーマンスも全て池澤さんのアイデアで、僕は雇われ店長でした。その後、(居酒屋の)オーナーさんと溝ができてきました。店の方向性というか、世の中の人を応援するってコンセプトでしてるのに、『もっと早く店を閉めろ』とか、いろいろズレが出てきていた。『それならもういいかな?』って思い、店を離れることに決めました。」


和(わ)をもって一緒(しょい)に目標に向かう!!

─ そして自分の店へ?

「僕が辞める時に、その店の数人のスタッフが僕についてきてくれて、それで「みんなで仲良く何かしたいな」って思い、ラーメン屋をすることに決めました。僕は祭り(生野区のだんじり祭り)もしてるので、屋号『「麺屋わっしょい』にしました。『和(わ)をもって一緒(しょい)に目標に向かう!』って意味です。団長でできなかったことを、麺屋わっしょいで一緒にやりたいって。2010年2月18日にオープンできました。」

 

─ 場所?

「地元の生野区で店をしたいって思ってたので、ちょうど物件が空いてた寺田町に決めました。」

 

─ メニュー?

「男の根性黒醤油とまぜめん。それにお年寄りのお客様にも食べたほしいので、あっさりした黒ラーメン。そして、つけめんを加えましたね。」



─ 今後の展開?

「みなさんの応援のおかげで、麺屋わっしょいはオープンして3ヶ月で黒字ベースになりました。当時はラーメン屋の展開とかは全く考えてなく、ただ「居酒屋はしたいな」ってのは思っていましたね。ラーメン屋は一店舗だけでいいって思っていました。」

 

─ 約2年後に、-今里わっしょいオープンへ?

「寺田町の常連さんに『2号店は?』って聞かれても、『いや、、ここだけでいいんです!』って答えていたんですが、ある時、従業員の何人かがが『2号店を出しましょうよ!』って言ってきました。何かやりたいって思いが伝わってきたので、『それならもう一軒いこか?』って言ったら、その子たちが『万歳!』って(笑)。それから物件を探し、今里に。場所が悪いけど、この場所でどれだけお客さんに喜んでもらえるかな?って。」

 

─ 商品は同じ?

「今のところはそうです。今後は新しい商品も加えることも考えています。」

 

─ そして、2015年、麺屋 団長を復活?

「さっき話してた初代団長は僕が辞めて半年後に潰れていました。開店前から深く関わっていた店なので、『僕が団長をいつか復活させる!』って気持ちがずっとあったので、今回、麺屋 団長を地元で復活させることになりました。」



─ 経営について

「ランチェスター経営を学び、実施しています。今の系列の3軒が全て自転車での範囲内。もちろん商圏が被るんですが、物を運ぶ、スタッフの貸し借りができるってこと。各店が離れてると各地域のお客さんに浸透するのも時間がかかるし、スタッフの行き来もできない。」

 

─ 今後のプラン?

「近日中に居酒屋を、鉄板焼き屋でオープンします。そして次はセントラルキッチンですね。良い物件を既に見つけていて、今の3軒のちょうど真ん中あたりの場所です。で、その後はラーメン屋をもうちょっと展開していこうかなって考えもああります。」

─ 海外進出?

「海外に出したいって計画もあります。アメリカを考えてるんですが、従業員の交流がしたい。アメリカのスタッフが日本で働いたり、日本のスタッフがアメリカの店でって交流がしたいですね。以前に一回話が流れてるんですが、来年、もう一回視察に行こうと思っています。」

 

─ 「祭をしている」とは?

「桃谷だんじりの役員をもう10年ほどしています。夏と秋です。だから、祭り関係のお客さんもけっこう多いんですよ。」

─ 大阪好っきゃ麺とは? 

■公式サイト:http://oosaka-sukiyamen.deca.jp/

「約15年前の話ですが、ミネヤ製麺の営業マン時代に、当時は店同士の横の繋がりがなくて、なんとか大阪を盛り上げれないかな?って考えていて、当時、金久右衛門さん、四神伝さん、ちぇりー亭(寝屋川市)、がちんこラーメンさん、その4店舗で大繁盛ラーメンってコラボをしました。大阪を面白く、業界を盛り上げるって企画です。当時は期待通りにはいかなくて、いつかこういう企画をまたしたいってのは思っていました。そして今里わっしょいをオープンするって時に店のTシャツを作ってくれてる店で偶然にTKUの店主さん(極楽うどんTKU)とお会いしました。同じTシャツ屋さんだったんです。それから話するようになり、ある飲み会の席で『近いから一緒に何かできたら面白いですね!』って話になり、山本流の山本店主も入れて『3軒でコラボしようか?』って流れになりました。それでよく考えたら『3軒とも環状線だな?』って。 それなら環状線をグルって廻る、当時、先駆けで開催してて盛り上がっていた『らの道(公式HP)』のようなスタンプラリーをしてみようかって企画になっていきました。」

 

─ イベントは?

「第1回で15店舗に参加して頂きました。ラーメン屋とうどん屋。僕は執行部として運営にも関わっています。けっこう大変。店舗探すのもですが、好っきゃ麺の理念がありまして、『全てのお客さんに喜んでもらう。子供から大人まで楽しんでもらう。業界を盛り上げる。』ってのを説明会で説明して、その理念を理解してもらえる店に参加してもらうって流れです。より多くの麺屋さんに参加してもらいたいので、各店1回のみ参加可能にしています。それと併行して、児童養護施設に慰問してラーメンやうどんを作りに行ったりもしています。店主同士で勉強会とかもしていますね。」

 

─ 店主同士で勉強会?

「社会保険や労働基準法についてなど。例えば、児童養護施設の子供たちが将来、この業界に安心して働きに来れるように過酷な環境を改善し、体制を整えていくのが大事だと思っています。」



─ わっしょいグループの接客について?

「従業員もですしお客さんもそうだと思いますが、毎回同じことを言ってたら慣れてくるんですよ。チェーン店とかでもマニュアル通りに丁寧な接客はしてるけど、それはなかなか心に響かない。ウチでは絶対に面接の時にいうのは『いらっしゃいませ!』も大事ですが、全てのお客さんに同じでは面白くないから、お客さんを見て、顔を見て言葉を変えて欲しいってこと。こんにちは!、まいど!、久しぶりですね!とかですね。ウチはスタンプカード制をとってるんで、常連さんかどうかはすぐに分かりますしね。」

 

─ 他には?

「『もう一人スタッフを削ってもいいんじゃないか?』ってよく言われるんですが、プラス一人を入れることによって、例えば暑そうにしてるお客さんに冷たいおしぼりを持っていくとか、粗相がないか?など細かい気遣いができるようになる。水だけでもいいんですけど、ジャスミン茶を用意したり。あとは地元密着になりたい。だからテレビの取材もあんまり受けていない。地域に溶け込んで、町を歩いてると『団長!』って声をかけてもらえるような。」

 ─ スタッフからの独立希望は?

「ウチの店からの独立は今はゼロですね。グループとして『何かしたい』って思ってるスタッフがいたら、

暖簾分けってことでなく、何か手伝ってあげれる体制を作ることも考えています。みんな、独立してやっていくのがどれだけ大変かは目の当たりにしてるからなかなか動けないはずだし。」

 

─ スタッフの育成?

「ウチは離職率がとても少ない。スタッフから僕もいろいろ学んでいますね。僕は否定は絶対にしない。『何かしたい』ってスタッフがいれば、『やって、やって!』って言いますね。」

 

─ 最後に?

「今、日本茶専門店がしたいと思っています(笑)。僕はおじいちゃん、おばあちゃんが大好きなので、そういう人たちに寛いでもらえるようなお店がしたい。屋号だけ決まってる。『Ba~cha Ji~cha(ばぁ茶 じぃ茶)』って。そういうのを考えてるとワクワクしますね。」



<店舗情報>

麺屋わっしょい

大阪府大阪市生野区生野西2-1-33

公式サイト:http://menyawasshoi.blog13.fc2.com/

 

今里わっしょい

大阪府大阪市東成区大今里南1-5-2

 

麺屋 団長

大阪府大阪市生野区巽中4-18-13

 

(取材・文・写真 KRK 平成27年11月)