Vol.17:彩色ラーメンきんせい

毎月のようにラーメンイベントが開催され、ラーメンブーム真っ只中の大阪! その大阪ラーメン界を「大阪ではうどん」という時代からずっと支えてきた名店がある。 高槻市に本拠地を構える「彩色ラーメンきんせい」だ。 最近、東京や札幌のイベントで「きんせいのラーメン」が人気爆発してるのをよく耳にする。 きんせいの味で育った人は皆、「何を今更。俺らはずっとこの味を食べてきてるんやで!」ってことだが、大阪の看板店のラーメンが日本各地で選ばれてるのをとても「誇り」に思う。 正式な卒業生以外も含めると、一体何十人のラーメン職人を輩出してるんだろう? 私自身もきんせいの味でラーメンに目覚めた人間なので、これだけ緊張するインタビューは初めてだ。きんせいグループ 中村代表にKRK直撃インタビュー!

─生まれは?

「和歌山県有田市です。中学卒業して、野球推薦で兵庫県神戸市の高校に出てきました。ポジションはキャッチャーでした。」

 

-その頃、ラーメンは?

「和歌山で生まれ育ってるので、もちろんラーメンが好きでしたよ。近所のカネタマル大西(有田市)、もちろんグリーンコーナーや井出商店とかもよく行っていました。子供の頃からラーメンはよく食べてましたね。でも『将来、ラーメン屋したい』ってのは全然頭に無かったです。食べるのが好きなだけでした。」

-それから?

「高校で野球をやってたんですが、半年くらいで肘を壊して退学ってことになりました。その時、腰も悪かったので、お医者さんに『立ったり座ったりと動き回る仕事しかないね。 美容師や飲食店とか』って言われました。それで食べるの好きだったので『飲食をしていこう』って決心しました。それで最初、中華料理店ですね。枚方市にあるお店で3年間みっちり修行させてもらいました。それが16歳の頃ですね。 それから『他所はどんなものなのかな?』って興味が沸き、他の中国料理店で働くようになりました。 そこは宴会もするような高級中華でした。そこで2年間かな? その頃には『将来、中華料理店がしたいな』って思い始めていましたね。」

-出会い?

「その頃に嫁と出会って、そして結婚したんです。 当時は中華の店は給料が安かったんですよね。それで生活厳しかったので求人を見てたら、ラーメン屋さんの給料がいいのに気づきました。そして『ラーメン店に勤めよう』って思ったんです。昔は求人誌とか無かったので、スポーツ新聞の求人欄で探していましたね。そして『枚方駅前に新規オープン!』って求人を見つけて、すぐに電話し面接してもらいました。金ちゃんラーメンって店で枚方駅前でFC1号店としてオープンする店でした。」

-どんなラーメンを?

「鶏豚骨の濃厚版って感じでした。滅茶苦茶売れましたね。そこがよってこやの前身なんです。創業店舗から店長をさせてもらって、新しい店を展開する度に、その各店で店長、店長ってなっていて、3年くらい現場してから管理職に上がった。25歳の頃ですね。それからスーパーバイザーになって、28歳の頃にはマネージャーにって。」

-各地に展開していく?

「最初2年間は関西のみで、3年目から東京。スーパーバイザーになって初仕事でしたね。それから関東一円、東北などに拡げていきました。その頃、今に生かすノウハウがかなり叩き込まれましたね。多くのことを学ばせてもらいました。」

-独立希望は?

「ずっと独立希望だったんですが、なかなかタイミングが合わなかったです。下の店長達にも『道を作っておかないと』って気持ちもありましたしね。中華料理屋として「開業したい」とずっと思っていました。結局、約7年ほど働かせもらってから、独立へ動き始めました。」

-自分の店へ?

「まずは場所探しでした。中華料理屋をするために場所を探していた時、たまたまね、他の場所を探してたんですが、迷ってあの通り(現在、夢風がある通り)に入ってしまったんですよ。本当はもう1つ北の通りを探していたんです。そしたら、あの辺に居酒屋さんとかが多くあってお客さんがいっぱいで、凄く栄えていたんです。両側路駐になるくらい活気がある通りでしたね。それで『あっ、この通り、凄くいいわ!』って思いました。『飲んだ帰りのお客さんが寄ってくれるだろう?』って。『この通り沿いで中華料理店をしよう!』って決心しました。」

 

-場所が決まって?

「すぐに場所が決まって契約したんですが、しかし、マンションの一階だったのでガス容量がマンションの一室分しかなかったんですよね。家庭用の容量しかなく、中華料理するにはガス容量が足りない。それでは困るから、家主に『足りないから、プロパンガスを増設させてくれ』って交渉したんですが、『危険だからやめてくれ』って断られました。もう契約もしてしまっていたし、『それならラーメン屋でいいわ』って。 そこで初めて『ラーメン屋をしよう』って決断したんです。僕はあまり深く考える方では無かったので。それが2001年頃でした。」


夜空に輝く金星のような、鮮やかな輝いたラーメンを!


-屋号はどこから?

「夜空に輝く金星のような、鮮やかな輝いたラーメンを作りたいってことで、屋号は「きんせい」にしました。」

 

-当時のラーメン事情?

「まだ個人店はあまり無い時代で、チェーン店ばっかりでした。麺や輝さんとか一信さんもその頃に既にありましたね。」

 

-どんなラーメンで?

「チェーン店のノリで業務用のタレを使って『あっさりした豚骨で売れるだろう?』って。それで『大阪ライト豚骨』で始めたら、そこそこ売れました。開店後、お客様がつくまではしばらく難儀しましたが、3ヶ月ほどで賑わうようになってきましたね。」

 

-それから?

「それから麺や輝さんや一信さんに食べに行ったりしてる内に、『ちょっと待てよ。こんな豚骨出してたらいつかウチは潰れるよな』って思いました。そして発想を思い切ってガラッと切り替えたんです。それまでも和風ラーメンってのを試作繰り返していたんです。そして『豚骨はもういいわ。これからは和風ラーメンでやっていこう!』に切り替えました。」

-お客様の反応は?

「それまでいたお客様が全然来なくなってしまいました。そこからですね。自家製麺も自己流で始めました。手探り状態ですよね。でも『将来は絶対にこれが来る!』って思ってやっていました。前の会社で東京に単身赴任で行ってた時、東京の多くの店を食べていたんですが、その頃、東京のFCのオーナーさんに『あそこ美味しいで』って連れていってもらったのが大喜さん(らーめん天神下 大喜)。その時に『絶対、ああいうのが関西にも入ってくるだろうな』って思っていたんです。しかし、お客様が離れた時期は長かったですね。それ2年間くらい迷っていました。」

-きっかけ?

「試行錯誤して、あの手この手考えて、ある時「燻製鶏塩」ってメニューをたまたまポーンって出したら、それがなぜか凄い評判良くてネット上でも口コミで広がりました。それからお客様が増えてきました。それが始まりですね。その後、焼き味噌ラーメンとか、当時どこもしてなかったつけ麺とか冷やしラーメンとか出していきました。当時、僕がやったメニューを次の年に皆さんがしたりして広がってることが多かったですね。」

 

-良い流れに?

「そうですね。いろんな限定をして、お客様がかなり増えてきました。和風ラーメンを始めた頃は1日10人とかだったのに、それが50人になり、80人、100人と増えていっていました。で、3年目、2004年にラーメン本で初代の大賞を頂きました。当時、多くの有名店があったので、まさか自分のところに来ると思ってなかったので驚きました。この賞のお蔭でメッチャお客様が増えました。その頃から京都から来るお客様が凄く多くなってきていましたね。当時は京都に和風ラーメンの店が全く無かったからでしょうね。店の前に路駐の車、京都や滋賀ナンバーが多かったですから。」

-トラブルは?

「近くにコインパーキングが無かったので、お客様が増えていくと、路駐が増えてきました。毎日、お巡りさんが駐禁の取り締まりに来るようになっていました。 自治会からも『出ていけ、出ていけ』って言われていたので(苦笑)、移転を考え始めました。 」

 

-それで?

「それで今の『きんせい高槻本店』の場所を契約したんです。すると、家主さんが『向かいの家を買い取ってタイムズにするから、この場所に残ってくれないか』って頼んできたんですよね。それで残ることになったんです。そういう理由であっちの屋号が『高槻本店』で、こちらが『栄町店』ってややこしい形になってしまったんです(笑)。 当時、もし家主が『タイムズを作る』を先に言っていたら高槻本店の話は無かったでしょうね。偶然ですが、結局、これがこの後の店舗展開へのきっかけになったんですよね。」

-東成きんせいについて?

「当時、弟子は取っていなかったんですが。山本(現・ラーメン人生JET店主)がいろいろあってウチに来ることになって、みっちり店に入れて鍛えこんだんです。そしたら『こいつ、すぐに商売できるわ』って。山本には商売人のセンスが凄くありましたね。そして、当時、たまたまね、一等星(当時あった金久右衛門のセカンドブランド店)が『人出不足で店を閉めている』って話を聞いたので、山本を連れて大蔵さん(金久右衛門 代表)の所に話に行って、そして山本に『お前、ここでやるか?』って聞くと、『やります!』って。それで東成きんせいが始まりました。」

-交野店について?

「元々、僕が以前に勤めていた『よってこや』がそこにあって、よってこや社長から『お前にやるわ』って言われて(笑)。 当時はウチに人がいなかったんです。でも当時、井川くん(現・株式会社Warm Heart代表)が京都でしてたパレードを閉めることになって、ウチに来ていたんです。それで『こういう話あるので受けるか?』って聞いたら、『やらせてください!』って。それで交野店が始まりました。」

 

-当時のエピソード?

「ある時、交野店のオープン準備してたら、いきなり井川くんが走って来て『大将、お客さんが来ています!』って。『何?』って行ってみたら、仙度さん(現・俺のラーメンあっぱれ屋 店主)だった。その時が初対面でして、仙度さんが『実はね、京都の山奥で無鉄砲さんみたいなラーメン屋さんをしようとおもって、今、準備してるんです。』って挨拶に来てくれたんです。そこで名刺交換させてもらいましたね。その後もね、高槻本店オープンの時も一発目に食べにきてくれて、『ごちそうさまでした!』ってさっと帰っていったんですが、しばらく経ったら、店の入り口に胡蝶蘭が置かれていた。よく見たら『俺のラーメンあっぱれ屋』って。『えーっ!!』って驚きましたね(笑)」

-以前の夢風ブランドについて?

「あれは当時『脱サラしてラーメン屋したい』って人が多かったので、そういう人達のために作ったブランドなんです。『誰でもちょっと勉強したらラーメン屋できますよ!』ってパッケージを作ったんですよ結局、1号店の方がいろいろ問題があって、一旦、夢風ブランドはストップという形になってしまいました。」

 

-店舗展開について?

「元々はそんなに考えていなかったんです。僕は組織が嫌で辞めた人間なので。 でも結局ね、僕の所に人が集まってきて、お店を出させてもらえるようになってきて、そういう展開になってきてるんですけど。」

 

-大阪以外に興味は?

「興味ないですね。やっぱり北摂エリアから出てしまうと店舗の管理ができなくなるんですよ。よっぽどしっかりした人がいたら、安心して任せられるんですけどね。」


無化調、無添加、自家製麺の店がしたかった。


-2015年、総本家をリニューアルし、夢風オープン。

「無化調、無添加、自家製麺。『こういう店がしたい』ってのは前から考えていました。 やっぱりね、ラーメンという食べ物は世間一般からは『あまり身体によい食べ物じゃない』って言われてるので、『そうじゃない』って証明したかったんです。お蔭様で無化調、無添加、自家製麺、安心して食べに来てくださるお客様はたくさんいらっしゃいます。でもジャンクなラーメンに慣れてる方たちは来ないですね。夢風のラーメンについてよく言われるのは『スガキヤさんと似てる』とか、『どん兵衛と似てる』ですね(笑)。」

-イベントへの参加について?

「社内で『きんせい総選挙』ってのはしていましたが、他所のイベントには昔は出ていなかったです。出るようになったのは最近、1年前くらいからですかね。最初はラーメンエキスポです。昔からご縁がある会社が関わっているイベントだったので参加させてもらいました。スタッフの子も喜んでくれるし、勉強になるしってことで、翌年には東京ラーメンショーにも出させて頂くことになりました。」

 

-東京ラーメンショーでは?

「プレッシャーは凄くありましたよ。前回の金久右衛門さん、前々回の龍旗信さんが凄く売っていたのを知っていたので、それがプレッシャーになっていましたね。『なにわの金の塩』って名前で出したんですが、お蔭様で凄い好評いただいて、多くの方に食べて頂きました。それからいろんなイベントに声をかけて頂くようになりました。」

-今後は?

「会社立ち上げて7年くらいなんです。今は社内の立て直し、組織作りをしっかりしていってます。それから新しい形での店舗展開をやっていこうかなって考えています。独立希望よりは、きんせいのために働いていってくれる人材が欲しいです。僕は夢風で好きなことをやって楽しませてもらいます。本当は45歳で引退って思っていましたけど、社内の体勢が整って、人が増えていったら引退できるんでしょうけど、僕らはまだまだです。」

 

-和歌山には?

「和歌山にはもう帰らないです。高槻に家を作ったんです。昔、高槻に初めて来た頃、『ここにずっといよう』って思いましたから。初めて来た時から、この街が凄く気に入ったんです。」



<店舗情報>

彩色ラーメンきんせい

公式HP:http://www.kinseigroup.com/

公式Twitter:https://twitter.com/info94499301

 

(取材・文・写真 KRK 平成27年12月)