Vol.49:桐麺

 2014年12月、淀川区に新たなラーメン屋がオープンした。場所は十三駅から少し離れた場所。オープン日から行列ができていて、SNSでも話題になっていたのをよく憶えている。屋号は「桐麺」。店主は大阪の超人気店「ラーメン人生JET」出身。JET福島本店で4年間、店長をしていたそうだ。あの超人気店で長く店長をしてた方だから、周りの期待値が開店日からとても高かったのも納得だ。

 私も開店日に行って味噌を頂いたのだが、ベースがしっかりした濃厚味噌がとにかく美味かった。あれから数年が経ち、十三駅近くに2号店をオープン。新たな挑戦に向かっている今、オープンしたばかりの2号店で話す機会を作って頂いた。"桐麺"桐谷店主にKRK直撃インタビュー! 


- 出身は?

「福岡なんです。博多っ子です。当時は豚骨ラーメンしか知らなかったですね。九州には26歳頃までいて、九州の中を転々としていましたね。」

 

- その頃、ラーメンは?

「若い時から好きだったので、九州のいろんな所で食べていましたね。宮崎に住んでいた時はラーメンマンってお店のすぐ近くに住んでいたので、そこによく食べに行っていましたね。食べるだけで、料理の経験は全く無かったです。」

- 関西にはいつ頃に?

「娘が小学校に上がる頃に『真面目に働こう』って思ったんです。それまでは変な言い方ですがチンピラみたいな生き方をしていたので(苦笑)。それで都会に行ってちゃんと働こうと決めて、家族で大阪に来ました。」

 

- 大阪に来て?

「大阪で求人案内とか見て面接に行くんですが、落ちてばかりでした。それで困っていた時に、中崎町で占い師がいたんですよ。おばちゃんの占い師さん。」

 

- 占い師さん??

「その占い師さんに『俺、仕事何したらいいやろ?』って相談しに行ったんですよ。3000円払って(笑)。するとそのおばあちゃんに『あんた、ラーメン屋が向いてるよ。』って言われたんですよ。『ラーメン屋しながら、出前が向いてるよ』って(笑)。で、そのおばあちゃんが僕のお父さんの職業を当てたんですよ。『あんたのお父さん、タクシーの運転手やろ?』って。それで『スゲー!』って思って。それからラーメン屋になることを意識し始めました。」


- ラーメン屋で働くことに?

「それでタウンワークを見たら、魁力屋(公式HP)って店の求人があったんです。まだ魁力屋も10店舗も無い頃です。それで面接に行ったら、社員として雇ってくれました。それから僕のラーメン人生が始まったんです。26歳の頃ですね。飲食で働くのも初めてでした」

- ラーメン屋で働き始めて、どうでしたか?

「給料が25万だったんですが、『25万稼ぐのってこんなにしんどいのか?』ってほど大変でした。周りからも『3日で辞めるやろ?』と思われていたんですが、なんか楽しかったんですよ。バイトの高校生とかパートのおばちゃんとかいて、楽しかったですね。」

 

- 魁力屋のラーメンは?

「僕は九州の豚骨ラーメンしか知らなかったですから、透き通ったラーメンが衝撃でした。『美味しいな~』と思いましたね。それから休みの日にラーメン食べ歩きにメッチャ行くようになりました。」

 

- 当時はどんな店に??

「当時、上新庄に住んでたので、天神旗さんや輝さんによく行っていましたね。輝さんが特に好きだったので面接にも行ったことがあるんですが、落とされて(笑)。」

 

- 面接受けたのは、なぜ??

「魁力屋は楽しい職場だったんですが、徐々にチェーン店と個人店の違いとか分かってきていて、『自分のやりたいのは個人店の方だな』と思っていたんです。」

 

- 独立志望はずっとあったんですか?

「最初から『自分のラーメン屋が持ちたい』という気持ちでラーメン屋で働き始めたんです。だから個人店に入っていろいろ学びたいと考えていました。」

 

- 魁力屋を離れるきっかけ?

「魁力屋の西宮店にいた頃に心が折れることがあって、退職することになったんです。その日の朝は『今日もやるぞ~』って感じだったんですが、やる気100がゼロになる瞬間をその日に味わったんですよ。それで営業中に勝手に家に帰ってしまったんです。もう嫌やわって。家に帰って、家族に『辞めたわ』って言ったら、家族が『はぁ?』ってなって(苦笑)。それから1週間くらい寝込んでいましたね。魁力屋のお偉いさんや先輩がウチに来てくれて、『戻ってこないか?』と言ってくれたりしたんですが、もう無理でしたね。魁力屋では1年半くらいお世話になりました。」


- 魁力屋を離れてからは??

「ある日、清水寺にちょっと散歩に行ったんですよ。一人で。上新庄から原チャリで行きました。それで清水寺で掃除のおばちゃんや観光客に話かけられながら、フラフラ歩いていました。その時に買ったお守りは桐麺 本店の方に貼っています(笑)。その時にいろいろ考えて家に帰ってから、ラーメンから離れてみようと思いました。それでトラックの仕事を始めたんですが、でも数日働いてると『やっぱりラーメンやな』ってなりました。」

- 次の修行先ですね。

「やっぱりラーメン屋で働きたいと思い、タウンワークを開いたら"東成きんせい"の求人が出ていたんです。JETが始まるちょっと前の頃ですね。実は魁力屋にいた頃、ラーメンを食べ歩いていて衝撃を受けたラーメンが2杯あったんです。その中の1つが東成きんせいで当時食べた醤油ラーメンだったんです。濁ってる鶏白湯の醤油ラーメンを食べたのが初めてだったので、『これって醤油か?』って驚きましたね。そしてその時にマスター(現・JET山本店主)がお客さんとちょっと揉めていたんですよ(笑)。魁力屋では『お客様は神様』だったので、お客さんと揉めているマスターを見て『こんな世界があるんや』ってまた衝撃を受けたんです。しかもその時、僕がお金を払おうとしたら1万円しか手持ちが無くて、店に千円のお釣りがなかったのでマスターがメッチャ機嫌悪くなって、お弟子さんに『おい、取ってこい』って言ってて、『怖~』って(笑)」

 

- それでも東成きんせいに?

「『こういう世界があるんやな』って興味津々だったので、電話して面接に行くと合格ってすぐに言ってもらいました。」

- 再びラーメン屋で働き始めて?

「それからJETが始まって、僕は東成きんせいの方で働くことになりました。個人店で働くのは初めてなので、一からスタートでしたね。『6時に店に来い』って言われても、5時に店に行って『チャーシューを切る練習させてください!』とか言っていました。その時は自分の店ってよりは、早く仕事を覚えたいという気持ちでしたね。」

 

- そしてJET本店へ移るんですね?

「ある出来事があって、僕はJET本店に異動になって、そして店長をやらせてもらうことになりました。最初はスープとかだけでしたが、JETには製麺機もあるので、休みの日に来て製麺を教えてもらったりしていました。それで製麺もスープも全部やらせてもらうことになっていきました。JETは一から手作りが基本なので、いろいろ学ぶことができました。

- その頃も食べ歩きはしていたんですか?

「JETで大つけ麺博に出た時、初めて東京に行ったんです。その時にちゃぶ屋さんで食べたんですよ。さっき言った衝撃を受けた2杯の中の1つです。『うわ~メッチャ美味しい!こんな凄いラーメンがあるんや?』って。でもその次の年にちゃぶ屋さんに行ったら、お店自体がなくなっていました。だから未だに東京行ったら、ちゃぶ屋出身の鳴龍さんやHulu-luさんとか森住さん系列の店によく行きますね。」

 

- JETから離れるのは?

「JETにいる間に離婚して、ラーメン漬けの生活でしたね。それから2年くらいして、今の嫁さんと再婚しました。その時に『今の自分の生活のままじゃ、また失敗する』って思い、独立しようかなと考え始めたんです。それまでは『マスターの下で10年くらい働きたい!』って言っていたんですよ。でも家庭を持ってから、このままずっとではアカンなと思ったんです。JETでは本当に大切にしてもらっていたんですがね。」

 

- 独立の話をした時は?

「新しい家庭のこととか事情を説明して『独立したい』って言ったら、マスターが『出たいなら出ていいぞ』と言ってくれました。マスターに9月に話したんですが、『10月いっぱいで出ていいぞ』って。僕の中ではすぐって考えていなくて、店に迷惑かけないように僕の後釜を育ててから離れるって考えだったので驚きましたね。」


桐麺(2014年12月1日オープン)


- 場所はいろいろ探したんですか?

「本格的に物件を探し始めて、十三筋沿いのいい物件を見つけました。大通り沿いだし、大家さんもいい人で『若い夫婦でするならいいぞ』って言ってくれてすぐに決まりました。正直、お金も無かったので、工事の人も安くしてくれたりして。」

 

- 屋号の由来は?

「桐谷が作るから桐麺、迷うことはなかったです。」

- 桐麺のラーメン?

「JETではスープとか麺はしてましたが、カエシは教わっていなかったんです。それで『どうやって作るのかな?』って困りましたね。そんな簡単にできるものでもない。最初はJETのイメージで作っていて、オープンまでになんとかできたんです。でもオープン時は正直、全然駄目でしたね。なのに大変なことにテレビの取材がすぐに来てしまったんですよ。

 

- 普通、テレビ取材が入れば喜びますよね。

「『もうか?まだこんなラーメンでテレビに出たら駄目だろう』って葛藤がありました。寝る時間もないし、休みも取れない。毎回カエシも違うのを作って、足し算足し算の繰り返しで『なんやこれ?』ってタレになってしまって。それでテレビの放送の2~3日前に、自分で『ちょっと落ち着け。俺はタレに頼り過ぎていないか?』と思いました。『俺はJETでこんなに凄いスープを教えてもらっているのに、なんでこんな正味ないタレを作っているんやろ?』って思って、一回全部捨てました。」

 

- 全部ですか?

「それで無化調で醤油と塩、ざらめ、味醂でスープに添えるようなタレにしようと思いました。そこからですね。自分で『あ~!美味しいな!』って思えたのは。無化調にしてあまり複雑なものを入れない。『タレをどうしよう?』ってばかり考えていたのを、スープを生かすためにって気づけたんです。それくらいから満足いくものができるようになりましたね。その時に思ったのは『JETでカエシの作り方を聞いてなくて良かった』ってこと。JETでカエシの作り方を教えてもらっていたら、どんどんJETに寄るばかりだったと思いますから。せっかく自分の味を出せるのにって。

 それで自分なりにカエシの作り方を考えて、そうなると醤油自体が気になり始めるんです。最初はスーパーで売っているような醤油を使っていたんですが、それからいろんな所の醤油を仕入れてみて試したりするようになりました。現在、本店の方は兵庫の足立醸造さんの醤油、こっち(2号店)はまた別の醤油。カエシを習っていたら、自分のラーメンを作れなかったと思います。」



- お弟子さん?

「店が安定してきたところで、3月に同時に二人の弟子希望者が現れたんです。僕、独立前に『未来年表』みたいなの書いていたんですよ。『僕はこういうラーメン人生をおくりたい』って。それには2年くらいで弟子を一人って書いていたんですが、1年目で二人同時に来たんですよね。それで『どうしよう』と悩んだんですが、せっかく僕のラーメンが好きと言ってくれているので。一人はJETの時からのバイトで、もう一人は桐麺のオープンの時から毎週食べに来てくれていた常連さん。こんなチャンスないなって思い、社員として雇うことになりました。」


中華そば 桐麺(2017年3月27日オープン)


- そして2号店ですね

「年表では38歳の頃の予定だったんです。でも二人雇って仕事を覚えてくると、僕が入れなくなってくるんですよ(笑)。『まだ現場から離れるのは早いだろ!』って思い、物件を探そうって。最初、奈良駅の近くで考えていたんですが『通勤が大変だな』って。京都も考えていたんですよ。その後に江坂とか西中島、西宮とか見てて、何か違うなって。

 それで十三周辺の物件を探している時に、なぜかワクワクしたんですよ。それで十三って決めたんです。1月の終わりくらいにこの物件を見つけました。ここ、一軒家で2階もあるんですよ。自分の中でラーメンに集中できる環境。研究できるし、寝るところあるし、メッチャいいやんって思い、すぐに決めました。1月に決めて、3月にオープンしました。」

 

- 2号店のラーメンは?

「最初から屋号は"中華そば 桐麺"と決めていたので、『中華そばがメインだな』って思ってました。JETで教えてもらった清湯と魚出汁のWスープ、自分の醤油ダレってイメージ。やっぱりJETですよね。マスターが作るラーメンが好きなんですよ。」


桐谷店主の未来年表


- 今後は?

「いつか東京に出したい。豊島区。あそこに出したいって思っています。僕、年表にも書いていますが『TRY(TRYラーメン大賞)を獲りたい!』って思っているんですよ。東京に定期的に行っていろんなラーメンを食べていますが、絶対に俺のラーメンの方が美味いと思って食べています。去年大賞だった店が翌年に載ってなかったりするじゃないですか。『そんな感じで時代が流れるんや~』って。年表では『40歳くらいでTRYを獲る』って書いていますから、あと5年後くらいですね。TRYって今、『日本の最高権威』って思われているじゃないですか。本店の看板、富士山を使っているでしょ?あれは『日本一になりたい』って想いを込めているんです。」

- 最後に一言お願いします。

「おかしな話なんですが、自分が気絶するようなラーメンをいつか作りたい。感動して泣くとかじゃなくて、食べて後ろにドッと倒れる一杯!そんなラーメンをいつか絶対に作りたいって思っているんです。」



<店舗情報>

■桐麺本店

大阪府大阪市淀川区三津屋北3-1-15

Twitter:https://twitter.com/kirimen1

 

■中華そば 桐麺

大阪府大阪市淀川区十三本町2-1-6

(取材・文・写真 KRK 平成29年5月)