Vol.13:幻の中華そば県庁前 加藤屋もり~んの章

2011年の夏、新しい店が大津市にオープンした。聞いてみると、どうやら滋賀ラーメンを長く支えてきた名店「幻の中華そば加藤屋」をそのお弟子さんが引き継いだようだ。驚いたのはその屋号。幻の中華そば県庁前 加藤屋もり~んの章。店主の名字や場所の特徴を加えた長~い屋号だ。一昔前なら他府県のラーメンファンにとっては、滋賀といえば「まぼちゅー」って時代が確かにあったと思う。そんな名店の歴史をそのまま引き継ぐプレッシャーの中、どういう気持ちで、どうラーメンと向き合ってきたのか?加藤屋県庁前もり~んの章 森本店主にKRK直撃インタビュー。


─生まれは?

「奈良県です。奈良にいたのは25歳頃までですね。」

 

─ラーメンは好きでしたか?

「子供の頃、近所にサイカラーメンがあって、ちょうど今、と市さんがある場所にあってよく食べに行っていましたね。」

─大学時代?

「滋賀の某大学に奈良から通っていました。そういえば大学1回生の時に無鉄砲さんの近くのゴルフ場のレストランでバイトしてたんです。で、そのバイトの先輩にみつ葉(奈良)の店主である杉浦さんがいました。滋賀に下宿するってなってやめたけど、やめてからでも杉浦さんがバイト仲間を集めて飲み会とかしてくれていたので、杉浦さんとは18歳~今まで16年くらいの付き合いがあります。」

 

─大学卒業後?

「その頃に、『週末にアルバイトしようかな』ってことで、家の近くにあったまりお流さん(奈良市)で働かせてもらうようになりました。皿洗いとかしてて、まさか将来ラーメン屋をすることになるとは夢にも思ってなかったです。」

─それから?

「その頃に京都から大津も近いので、加藤屋さん(大津市)に何度か食べに行っていました。で、偶然なんですが、加藤屋の大将とまりお流の大将が同じ鹿児島出身ってことで、加藤屋の大将もまりお流で食べるために奈良までよく来ていて、僕もまりお流で加藤屋の大将と会ったりし、よくしゃべるようになっていきましたね。仕事早く終わった日は加藤屋さんに行って食べて、それから加藤屋の大将と奈良へ一緒に行き、まりお流で食べてって日もありました。」

─ラーメン屋で働くことを真剣に考え始める?

「その頃していた仕事が非常勤だったので、正社員としての仕事を見つけてって思い始めた頃、自分が40歳とかなった時に『ラーメン屋をしたいって言いだすやろな『って自分の中で思い始めたので、それなら遅くに始めるよりは早い内からしたほうがいいなって思い、ラーメンの世界に入ることを決めました。それが27歳の頃です。当時は自分の中でも『実家から出たい』ってこともあって、親しくしてた加藤屋の大将に『東京のラーメン屋さんで住み込みでもいいから働ける店を探して、東京に行こうかな?』って相談しました。すると、ちょうど加藤屋で長く働いてた人が辞めた後だったので、大将が『東京まで行かんでもウチで働いたらいいやん?』って声をかけてもらいました。それで大津の駅前で住んで、加藤屋さんで内弟子として働き始めました。東京にポーンと行くよりは、同じ関西、滋賀の方が馴染みがあるし、すぐに決めましたね。」



─加藤屋さんで働き始めて?

「今まではバイトだったので、内弟子になると作る方も当然習っていきます。ちょっとしたことで味も変わるし、やはり大変でしたね。最初の頃はまだ専門学校の非常勤と並行してお昼だけバイトって形から始めました。が、年末に大将が急に入院するってことになり、大将が病室でスープの作り方をひたすらノートに書いたのを渡されて、病室でみっちり教えてもらい『これでスープを炊いてくれ』って言われました(苦笑)。その時点ではど素人でスープの炊き方とかまだ習えるって段階じゃなかったですし、実際にやってみて、やはり同じようにはいくわけもない。当時、僕ともう一人のスタッフがいたんですが、お互いに昼は加藤屋で働いて、昼終わりで片づけもせずに他のバイトに二人とも出ていき、夜に二人で戻ってきて片づけや翌日の仕込みをしてって生活を2週間くらい続けていましたね。いよいよもう体がもたないって頃に大将が戻ってきてくれました。今思うと、やらざるは得ない状態になってしまって、お蔭様でスタートが早くなったんですよね。普通は弟子で入ってもなかなかスープ作りなどは教えてもらえないし。で、翌年に非常勤を完全に辞めて、加藤屋で正社員になりました。」


─「幻の中華そば」とは?

「まぼちゅー(幻の中華そばの略)ってのは加藤屋の大将自身が思い描く『自分が一番食べたい理想的な中華そば』ってことです。鰹が効いたラーメンを作っていきたいって。若い頃はこってり豚骨とか好きだったみたいですが、年を重ねるとだんだんとこってりが無理になってきて、でもラーメンが好きだったし、『じゃあ、自分で作ってしまえ』って動いたそうです。鰹が好きってこともあり、鰹を効かせたお出汁のあっさり中華そば。自分が理想とする『まぼちゅー』を作っていくのがスタートです。」


─本格的にラーメンの道に

「修行として、月替りの限定メニューを作る担当をさせてもらうようになりました。まだ1年目の新人だったので、試作用にスープを炊いたりするのも大変だったので、最初の内はまぜそばをすることが多かったです。ませそばだと、いろんな組み合わせを比較的簡単に試せるし、当時、まぜそばってのが珍しい頃だったので。京都のまごころ味噌を使ったまぜそばが最初の限定でしたね。当時はどうやって味を作っていくのかも分からず、毎日のように大将や奥さん、常連さん達から意見を頂き、試作を繰り返す日々でした。その次の次くらいにできたのが森次朗です。僕自身、26歳くらいの頃ですね。当時の僕は奈良のサイカラーメンで育って、まりお流や無鉄砲など食べてたし、豚骨とかガッツリ食べたい頃だったので『ウチの店でも二朗系みたいなの作ったらどうなるのかな?作ってみたいな~』って思い始めたんです。太麺で野菜どーんと載せて、ここから何をのせていこう?ってことで、できあがったのが森次朗です。僕の名字が森本なので、森次郎です。その頃、今の大阪にぼ次朗の店長『宮澤』もいてたのもあり、限定メニューには各人の名前をつける流れがあったからです。大将が作ったら『大将の~』とか『ロバート・・』。宮澤の限定は『みや~んの・・』という流れでしたね。もり~んの作った二郎系ということで『森次朗』と命名されました。」

─加藤屋の大将の反応は?

「大将はあっさりのメニューを作っていきたいって流れだったので、『こんな太麺で量が多くて』というメニューは『加藤屋らしくないなぁ』という感じで言われましたけど、期限も迫っていたのもあり、次回の限定メニューとして出させてもらいました。」

 

─それで?

「今までウチに来てなかった学生のお客さんとかが『大盛のメニューあるんですか?』とかで来るようになりましたね。とにかく新しいお客さんがどんどん来てくれるようになりました。僕らの予想してた以上に反応が良くて驚きました。Twitterとかも流行ってない頃ですが、ブログとか口コミで広がっていたようですね。」

─加藤屋にぼ次朗への流れ?

「加藤屋と全く違う系統でしたが、学生のお客さんが多く来てくれたのもあり、大将が『こんだけ若い子に受けるなら、もうちょっと学生さんが多いエリアで出したら、もっとお客さんも来てくれるんじゃないか?』って言ってくれて、もうその年の秋には、南草津のにぼ次郎オープンってことになりました。僕もまだ正社員になって半年くらいだったのに、いきなり南草津の幻の中華そば加藤屋にぼ次朗の店長になることになりました。」

 

─看板メニューのにぼ次朗は?

「森次朗が若いお客さんに受けるのが分かって、別ブランドとして店を出すと決まった時、当時、油そば自体が知られてない時代だったので『油そばだけじゃ?』ってことで、『ラーメンも食べたい』ってお客さんにも来てもらいたいので、大将が煮干しベースの二朗系『にぼ次朗』をメニューとして作りました。」

─にぼ次朗をオープンして?

「最初の頃は厳しかったですよ。最初は夜営業だけでしたし、お客さんが50~60人ほどが続いていて。大将は『ここの店で100人超えを目指すぞ』って言ってのでみんなで頑張っていましたね。初めて100人を超えた時にはスタッフみんなで大喜びしましたね~。3か月目の頃だったかな?」

 

─にぼ次朗の店長として?

「最初はミスが多かったし、当時のバイトの人達に助けてもらい、なんとか続けられましたね。それから1年後に伏見にぼ次朗をオープンすることになり、しばらく両店の店長を兼任していました。」

 

─人気の森印朗は?

「印朗ができたのは加藤屋として参加した滋賀維新会のイベントの一環で『各店でカレーラーメンを作ろう』って流れから生まれました。若い子に人気のある森次朗をカレーテイストに仕上げていこう!ということでできました。」



─ターニングポイント?

「にぼ次朗で店舗展開をする中で、大将も腰を痛めてるってのもあってなかなか昼営業だけしかできない状態が続き、ある時『ここを閉める』って大将から話があった。『にぼ次郎に集中して、また落ち着いたら新しく本店をいつか立ち上げるつもり』って話でしたね。ここの店って僕のスタートの店だったし、大切な出会いがあった店だし、思い入れのある大事な店です。『無くなってしまうのは寂しいな~』って思い、大将に『閉めるなら僕にここでやらせてもらえませんか?』って言い、突然に独立話になってしまった(笑)。2~3週間くらいの間の出来事でしたね。」

 

─独立志向は前から?

「独立志向はありましたが、でもはっきりしたことはまだ全く考えてなかった頃ですね。ただ、大将から『ここを閉める』って話を突然聞いたのと、それに加えて、その頃に僕の父親が亡くなっていたのも大きい。『自分でちゃんと稼げるようになりたい』って思いがありました。」

 

─大将は?

「伝えたら、すぐに『お前、頑張れ!』って言ってくれました。同じメニューでいくのか?それとも新しいのでするのか? 僕自身はこのタイミングで『自分のメニューで始めたい』って気持ちもあったんですがまだ経験も浅かったし、にぼ次朗の店舗にいた期間が長く、自分のラーメンってのがまだ何も無い状態だったので、大将が『このまま加藤屋のメニューのまま、常連さんがついてる状態でスタートして、限定でいろいろ経験を積んでから自信をつけた時に加藤屋の看板を外して、自分で始めたらいいやん?』って言ってくれました。」



─そして自分の店?

「はい。2011年7月24日にオープンしました。」

 

─長い屋号は?

「メニューもお店もそのままだったけど、僕に変わったってことをお客さんにアピールするために『もり~んの章』ってのを付けました。分かり易く『県庁前』ってのも。滋賀県の人なら県庁前って付けたら店の場所が分かるだろうって。」

─自分の店をオープンして?

 「オープンして、その秋にイケメンバトルってイベントに参加し、いきなり準GPを頂きました。そこで「とりにぼ」を出しました。以前から『やりたい』って思ってた鶏白湯を初めてしたんですが、これが多くのお客さんに受け入れられて、賞まで頂いて自信となりましたね。これでをきっかけに、豚骨とかも作るようになって。自分の中で『いろいろできるな~』って。」

 ─湖国ブラックとは?

「2012年の春頃からかな? ととち丸さんが『滋賀県のご当地ラーメンを作りたい!』って言い始めて、仲の良いラーメン屋さんに声をかけて『みんなで作っていこうか』ってなりました。ウチだと『まぼちゅー』の鰹効かせたスープをベースに滋賀県産の溜まり醤油を合わせて、醤油の香りが強いので鰹を強くしたりして、スープに負けないように中太麺を使ってって感じですね。」

 

─一番出るのは?

「まぼちゅーですね。他はメニューもそれぞれファンがいてくださっています。最近、にぼし中華そばが反応いいですね。唐揚げもだいぶ拘っています。僕のオリジナルの味付けで。」

─他店のラーメンも食べてますか?

「時間が無くあまり行けていませんが、時間があればよそのお店にも行かせてもらうようにしています。」

 

─趣味?

「昔はパソコンや読書してたが、なかなか最近はラーメン以外の時間がないですね(笑)。」

 

─お弟子さんは?

「『いつかは』って思ってはいますが、今の状況では厳しいかな?もうちょっと安定してから考えていきたいですね。」

─ラーメンイベントへの参加?

「なかなか『出たい!』って言っても参加できるイベントではないので、声をかけてもらって参加させてもらいました。いい経験になったし、新しいお客さんや他の店主さんとの繋がりができたし。2年連続で出させてもらって。今年も出たかったのですが人手不足なこともあり、今年は残念ながら断念しました。」

 

─大切にしてること?

「同じようにしてても、毎日出来上がるスープが微妙に違ったりとか。お客さんによってもデスクワークしてる方、力仕事してる方とかいうと体が求めてる塩分とか違ったりしてると思うので、季節とかお客さんの様子に合わせて微調整しながら少しでも美味しく食べてもらえるようにって意識しながら作っています。お客さんに美味しいなって思って帰ってもらいたい。当たり前のことだが、できることはなるべく一生懸命していきたいって常に思っています。」



<店舗情報>

幻の中華そば加藤屋 県庁前もり~んの章

滋賀大津市中央3丁目4-20

店Twitter:https://twitter.com/morinKTY

店ブログ:http://www.katoya.biz/blog/morin/


(取材・文・写真 KRK 平成27年10月)