Vol.14:ちかみちらーめん

2009年の年末、奈良県の川西町にラーメン専門の屋台が現れた。キャンピングカーで調理し、テントの中で食べてもらうという屋台だ。昔からある老舗喫茶店の駐車場に、夜になるとテントが建てられ灯りがつき、キャンピングカーからは煮干しの香りがフワフワと漂う独特の世界観。そして更に驚かされたのは、この屋台の店主が東京の名店「たけにぼ」出身者だという。しかも「たけにぼDNA」を正式に継ぐ唯一のヒトだということだ。聞きたいことが山ほどある。ちかみちらーめん若井店主にKRK直撃インタビュー。


─ 生まれは?

「奈良県です。親が喫茶店してて共働きなので、自分がお腹が空いても何も出てこない状況だったので、小学校の低学年の頃から自分で料理を作ったりとかしてて、包丁も持っていたみたいです。料理ってほどではないですがね。何かしらやってたみたいです。」

 

─ ラーメンは好きだった?

「僕らの時代ってインスタントラーメンが流行り出してた時代。カップラーメンじゃなくてインスタントラーメン、袋麺ですね。麺類は好きだったんですよ。自分でちょっと野菜入れたりして作っていましたね。ラーメン屋さんでは天理市にある豚菜館の持ち帰りラーメンがあるので、それを電話予約して持ち帰りとかしていましたね。小学校の頃にそのラーメンを自分で作って食べていました。あとはサイカラーメンですね。サイカもよく持ち帰りを買っていました。鍋を持って行き、生麺もらって自分で家で作っていました。」

─ その頃の夢は?

「釣りの世界に行きたかったんです。小学生の4年~5年頃から『釣りで食べていきたい』って思っていました。毎日釣りでしたね。いつも行きつけの場所があり、いつもそこにいるって親も分かっていた。それから中学校になると、音楽。バンドをし始めて、高校でもバンドしていて。ジャンルはロック。ビジュアル系の方でしたね。人相変わるようなメイクしたりして(笑)。地元の仲間としてたけど、高校卒業してからは大阪の仲間とバンド組んでました。ベースをしていました。」

 

─ それから上京?

「上京したのは19歳の時でした。全国ツアーを廻ってるミュージシャンの方がいて、その方のお手伝いとして、機材搬入やセッティングとかしていました。その方が東京を拠点にしていたので、『東京に来たら』って言われて、それが上京のきっかけでしたね。若かったから、動くのも早かったです。しかし、それからは売れないミュージシャンの在り来たりな生活。バイト掛け持ち、音楽しつつの毎日でしたね。僕は単身向こうに行ってたので横の繋がりが無かったので、繋がりを作ろうと思って音楽関係の学校に行って、そこで知り合いも増えて、仕事もアマチュアミュージシャンのレコーディングとかにも参加させてもらったりしていました。それが25歳頃でした。でも、もう先を見据えて『これから音楽で喰っていけるか?』ってなると自信が無くなっていました。」


─それから? 

「実家に帰るってことも頭に浮かんできていました。でも何も無い状態で帰っても、また一からやり直しになるので、『何かやることないかな?』って考えてた時にしてたバイトが居酒屋でした。居酒屋の厨房に入ったりしてたし、居酒屋をしようかな?ってことも考えたりもしましたね。それからいろいろ考えた後、頭に浮かんできたのがラーメンでした。本格的にラーメン食べ歩きをしてたわけでなかったけど、好きなので時々は食べていたんです。で、その中にたけにぼ(たけちゃんにぼしらーめん)、深大寺の本店があったんですよ。『たけにぼ』は屋台からやってお金を貯めて、一店舗目ってのが深大寺店。そこはもう大行列だったんですよね。当時、テレビのラーメン企画の影響もあって凄いブームでした。『こんなに並ぶの?』って衝撃的でしたね。その頃、(たけにぼの)マスターが『小さい鍋で大きい量を作るためにどうしたらいいんだろう?』って試行錯誤して考え出したのが、別にとって、材料が入ってる鍋に合わせていくってWスープの製法を作り出して、言い始めたんです。マスターとはまだ全く面識はなかったんですよ。」

─ ラーメンの世界へ?

「ラーメンをしようって決めて『どっかいい所がないかな?』って考えていて、頭に浮かんだのが『たけにぼ』でした。行列も見てるし、ポンって浮かんできました。それで深大寺店にもう一回食べに行ったんです。そしたらやっぱり美味しくて、他のラーメン店とは違うんですよね。どっちかといえば蕎麦寄り、日本料理寄り。所謂ラーメンって感じじゃなくて。それで『この味が欲しい』ってなったんですよ。その頃に深大寺店が道路拡張のため移転するって話が出てて、移転先がちょうど自分の住んでた最寄りの駅近くって話でした。運命も感じましたね。それから噂通りに工事も始まって、もう『募集し始めたら絶対に行こう』って思い、貼り紙をいつも探してたんですが、結局、募集もないまま店がオープンとなった。それが今の調布店です。移転オープンした調布店に食べに行ってみると、やっぱり美味かったんですよね。それから3ヶ月くらい経って『もう募集しないんだろう』って思い、店に電話しました。聞いてみるとやっぱり『募集はしていない』ってことで断られました。それで『どうしても働きたい。修行させてほしい。』って言うと、『ちょっと話したいから来てください』って面接が決まりました。面接に行くと、マスターはもうチャキチャキの江戸っ子でかなり職人肌の人で頑固さが伝わってくる人でしたね。『これやばいな』って思ったんですが(笑)、いろいろ話してるとマスターも昔、音楽してた話になり、マスターから『ラーメン屋になりたいんか?音楽はどうするねん?』って聞かれました。僕は『もう音楽はやめます。ラーメン屋になりたいんです。この味を奈良に持って帰りたいんです。』って答えると、もう『すぐに来てくれ。修行を続けれるかどうかは君次第だ。ウチは厳しいよ。まともに卒業した人はいないからね。』って言われました。正直ビビッていましたが『はい!』って言いました。それが2006年くらいの話です。」



─ たけにぼに入って?

「働き始めてから、すぐに蕁麻疹がでましたね(苦笑)。疲れとかもあるし、労働の拘束時間がとにかく長いし、その上にマスターからの異常な圧力が来るんです。職人気質の方なので、こうしなきゃだめだって。何もかもが圧力なんですよ。『これはめっちゃやばいな~』って感じでしたね。でも気持ちは折れなくて、『なにくそ』って思ってました。このまま辞めたら情けないな~って。包丁とか好きだったので、居酒屋の時から自分の包丁を持っていたので、マスターにそれは気に入られていました。」

 

- それから?

「最初はフロアーからスタートして、それをクリアーしてから次は洗い場ですね。フロアーはある程度できたけど、洗い場に入り始めてからマスターからの圧力が凄かったです。ラーメン屋のメニューって組み合わせが凄く多いので憶えるのが大変でしたね。ぐずぐずしてると麺がのびるし。毎日500食とか出てた行列店だったのでずっとお客さんは並んでますしね。その頃は調布店と代々木店があって、調布店でマスターに気に入られないと『代々木店に行って』って言われるんです。その頃は代々木店に行かされるのって『アウト』って意味だったんですよ。代々木店から調布店に復活してきて、ちゃんとできてた人、卒業した人がいなかったですから。で、マスターに近くにいないとちゃんと卒業はできないんだなって思っていました。一回、代々木店のスタッフが足りなくてヘルプで行ったことがあるんですが、翌日にマスターから感想を聞かれた時に、『代々木店、僕は駄目です。調布店にずっといます!』ってはっきり言いましたからね。その頃はもうある程度、自分も修行を重ねてきて平均的なレベルは上がってる頃でした。」

─ 独立へ?

「僕の場合はある程度、独立への期限を決めていました。マスターからも『これから先はどうするの?』って聞かれていたし。で、奈良から12年ほど離れてたので、地元のことも全然分からなかったし、実店舗を構えても客が来なかったらどうしようかな?って思ってて、頭に浮かんだのが屋台だったんです。イメージしてたのがどこにでも行けて、人のいるところに行けばどうにかなるか?ってことで。マスターも屋台から始めた方だったので、『僕も屋台するつもりです!』とマスターにも伝えました。マスターの屋台時代の思い出話もいろいろ聞かせてもらいましたね。相当やばい話もありました(笑)。マスターからは『とりあえず1日30食を下回ることないようになるには時間かかるで』って言われていましたね。僕の中では調布店での1日500食って時代だったので想像できなかったんですが、いざ自分の屋台を始めると、30食の壁がなかなか超えれなかったんですよ。マスターの言う通りでしたね。」

 

─ 最初から奈良に帰るって決めていた?

「最初は奈良でラーメン屋しようって考えはなかっんです。でも、ある時から『奈良で』って気持ちになっていきました。たけにぼの味を中途半端な気持ちで持って帰ってほしくないってことで、最初は嫌がられていましたが。」

 

─ キャンピングカーは?

「僕は車が好きで興味もあったし、いろんなイベントに行くとキャンピングカーでクレープを売ってる店とか見てたので。奈良の同級生にキャンピングカーをオークションで見つけてもらい、それを埼玉に持ってきて埼玉の業者に改造してもらい、また奈良に持って帰り保管して、たけにぼでの修行は続けていました。」

 ─ それから?

「いつまで働くって具体的な期間は決めてなかったんですが、ちょうど工事が入るってことで調布店が一ヶ月くらい休むことになって、そのタイミングで『ここで卒業』って形になりました。たけにぼで働いてた経験がある人は何人かいますが、マスターに認められて『たけにぼ』から正式に卒業したのは僕だけです。その時にマスターと写真も撮らせてもらいました。それが2009年です。たけにぼでは3年半ほど修行させて頂きました。」



─ 自分の店でどういうラーメンを?

「たけにぼでやってたことを同じようにしてみようってやり始めたら、水が違うので全く違うものが出来上がってきて。火力も違うし、全く違うものになったんですよ。で、一から解体し始めて。魚の部位を全部バラバラで1つずつ使って味見していって、『この水ならどこまで出るんだろう?』『ここまでいるのか?』って量などバランスを見ていったり。ある程度のところまで来るんですが、またドンドン分からなくなっていくって繰り返しでしたね。頭の中ではどうしても『たけにぼ』の味が基準になっていたので、どうしてもそこを狙うので。けど、どう足掻いてもそこまでいかないんですよね。」

 

─ そして2009年12月にオープン。

「オープンの頃にはまだ自分の味を完成って感じじゃなく、これで『とにかくやってみよう』って思っていました。最初は散々でしたよ。奈良の人は『たけにぼ』なんて知らないし。僕も『東京で修行しました』とか出してなかったし。食べにきてくれるお客さんも『醤油辛い!麺がまずい!ニンニクをもっと入れなあかんわ!』とか。閉店してからわざわざ戻ってきて『スープの作り方を教えたる』って言ってきたお客さんもいましたね(苦笑)。だから最初の一年くらいはお客さんと話すのが嫌って思っていた時期もありました。」

 

─ キャンピングカーは?

「車が仕上がった頃には量が量だし、動くのは無理がある。固定しかないって思いました。オープンの時は真冬だったのでテントが無いと駄目だと思ったし。テントは半年使っていて、それからプレハブにしましたね。『夏は絶対にエアコンいるな』って思って、友達に譲ってもらいました。本当はもっと大きいプレハブが欲しかったんですがね。」

─ 震災?

「2年目で売り上げもどん底の時期で『もうやめめた方がいいんじゃないかな?』って思ってたりしてた時でした。東日本大震災(平成23年)があって、『これ、車で炊き出しにいけるよな?』って思いましたね。東北の方がああいう状況で、『これは行かないと絶対に後悔するな』ってことで、すぐに動きました。関東の方で『ラーメン義援隊』ってのがあったので連絡して場所を紹介してもらい、店に来るお客さんも寄付をしてくれて。そのお蔭で資金に関しては困らなかったです。それから3回に分けて、東北の方へ炊き出しに行かせてもらいました。その経験を通して、なにか自分の中で吹っ切れましたね。どん底な状況でも生活できてるし、すぐに辞めるって考えてたらあかんなって思いました。」



─ 2014年12月に店舗化?

「奈良のラーメン店主が集まる大和Noodle店主会に入ってから、他の参加店さんと営業スタイルとか接客とか比較すると、やはり屋台では格段に差が出てしまう。で、店主会の仲間にいろいろアドバイスをもらって店舗化へ動きました。店主会に入ってなかったら、店舗化は無かったと思います。店舗化したら、やっぱりお客さんの反応が全然違う。昼も営業できるし、新規のお客さんも増えてきましたね。」

 

─ 限定メニューについて

「『限定やるぞ!』って日を決めると良いものができない時もある。告知せずに良いものが出来上がってから、ふわっと限定を出す方がいいと思っています。来てくれたお客さんが『今日、こんなんあるんや?ちょっと食べてみよう』って感じの方が僕は気に入っています。」

─ 他店でラーメンは?

「時々食べる程度。ラーメン屋が目当てじゃなく、旅行ついでにって程度です。その中でも八王子の煮干鰮らーめん 圓さん、他には中華そば しば田さん(東京)の煮干しが本当に美味しかったですね。透き通ったスープで、煮干しの苦みも残しつつって。」

 

─ 趣味の釣りは?

「屋台の頃は夜中とか行けたけど、今はなかなか行けませんね。」

 

─ ラーメン本で準GP受賞?

「今まで醤油と塩で賞を頂いたので、あの本を持ってくるお客さんもいますね。」

 ─ 自分のラーメンへの拘りは?

「やっぱり煮干しですよね、今、煮干し系で流行ってる店はがっつり煮干しって感じでドロドロ系、絞り出してって感じで見た目グレーっていうのが多いですよね。僕は「ああじゃないな」って持論がある。煮干しラーメンの持論がある。ウチは煮干しそのものの出汁。そこに強い拘りを持っています。」



<店舗情報>

ちかみちらーめん

奈良県磯城郡川西町結崎1889-1 

Twitter:https://twitter.com/chikamiti

公式ブログ:http://ameblo.jp/chikamiti/


(取材・文・写真 KRK 平成27年10月)