Vol.48:創作らーめん style林


 塚本駅を出てお目当ての店へ向かうと、大行列が目の前に現れた。2015年12月1日、塚本駅近くに一軒のラーメン屋がオープンした。屋号は"創作らーめん style林"。オープン前からSNS上で話題になり、オープン日には3時間待ちの大行列。店主はあの味噌の名店"みつか坊主"の一番弟子だった方。そんな店主が独立開業し、提供する看板のラーメンは味噌ラーメン。奥行きのあるカウンターのみの店内で、店主が目の前でラーメンを作ってくれるライブ感もいい。

 そんな話題の店だからメディアでも多く取り上げられ、瞬く間に大阪屈指の人気店へ。そして某ラーメン本で新店GPを受賞する。ここまで順風満帆に見えるstyle林だが、人気店となった今、店主は何を語ってくれるんだろう。"style林"林店主にKRK直撃インタビュー!


- 出身は?

「大阪府の吹田市です。」

- ラーメンに興味を持ったのは?

「16歳頃ですね。上新庄の高校に通ってる頃、(今、一緒に働いてる)仲間が小さい頃から通ってたラーメン屋さんが『メッチャ美味しい!』って教えてくれたので、その店に行ってみたんです。それが『とっかりⅡ』でした。当時はまだ野球部の仲間と一緒に、キムチとご飯があってラーメンがあるって店にしか行ったことが無かったので衝撃でした。その頃は2代目のマスターがしていて、その時に食べた塩ラーメンに衝撃を受けました。それから週1くらいで野球のバッグを持ってみんなで通っていました。あまりにも美味しいので『こんなにラーメンって美味しいんだな』って興味を持ち、それで美味しいと思った店主に『他にどこのラーメン屋さんが美味しいですか?』って聞いて、その店を廻っていこうって高校生からやっていました。」

- 当時のエピソードは何かありますか?

「野球の試合で遠くへ行った時とか、試合後に地元の人に美味しいラーメン店を聞いて行っていたんですが、ある時、教えてもらったのが高槻のベトコンラーメンの店。当時、僕たちはインターネットとかできなかったので、その店がメッチャ離れてたんです。口コミだけで友達3人でバスや電車を乗り継いで向かったんですが、僕たちはお金が3人で3,000円ほどしか持っていなくて、途中でヒッチハイクすることにしました。その時に出会った人に「お前ら、なんや?それじゃラーメンも食べれないぞ!」って言われて、怒られるのかと思ったら5000円くれたんですよ。それでそのお金でなんとかベトコンラーメンの店に辿り着きました。辿り着いた時にはもうお金も無くなってしまっていて、ラーメンとライスを食べてから、店主にその話をして『帰り道も分かりません』って言ったら、店主さんの娘さんに駅まで送ってもらいました。」

- 他にもいろいろ食べに行ってたんですか

「そうですね。福岡に1週間行って21杯食べたり、北海道、横浜、いろいろ行っていましたね。でも当時は将来ラーメン屋になろうって気持ちは全く無かったですね。」

 

- 料理への興味はありましたか?

「実家が割烹料理"まござ"って店をしていて、僕はずっと親父に『兄貴よりお前が向いている』って言われていました。野球部の頃、凄い食欲だったので、ウチの店へ行けばタダで食べれるのでよく食べに行っていたんです。それで、親父に『店に入れ』って言われてたんですが、ずっと僕は逃げてたんですよ。厳しい世界なのが見えていたので。」

- 高校を卒業して?

「小学校、中学校からの夢が吉本の芸人さんだったんです。なのですぐにNSCに入りました。それから2年間くらい、NSC31期生として幼馴染の相方と活動していました。当時は音楽もしていましたね。どっちも一生懸命努力したんですが、才能ってのが必要だな~って思いました。どっちも僕には手が届かない夢でしたね。僕は夢を持っていないとポジティブに生きていけない人間でしたから、『何か次の夢を持たないといけないな』って思いました。その時に"食"ってのが頭に浮かびました。親父が料理人だったので小さい頃から相当良いものを食べさせてもらっていたので、自分でも舌はかなり効くなって思ってたし、料理の世界は手の届かない存在じゃない。努力さえすれば、筋トレみたいなもので力がつくなって。これは果たせない夢じゃないなって思いました。それで芸人と音楽、どっちもあきらめて、『もう僕は何も挫けたくない。逃げない』って決意して料理の世界に入ることしました。」

 

- 実家の店に入って?

「それから店に入り、皿洗いから雑用をすることになりました。そしたら、急に親父が亡くなったんです。」

 

- 急にですか??

「その日はお休みだったのでとっかりⅡにいたんです。味噌ラーメンが出てきて『さぁ食べよう』って時に電話がかかってきて、親父が亡くなったことを知らされたんです。マスターが『お前どうしてん?顔青いぞ』って。それで事情を説明すると『ラーメン食べてる場合じゃないやろ。早く行け~』って言ってくれました。」

- 大変だったんですね。

「親父が死んで、料理もあまり憶えることができず、半年後くらいでお店も閉店することになりました。『これからどうしよう』って考えた時に頭に浮かんだのがラーメン屋。味噌ラーメン、とっかりのが好きだったので『他にも美味しいところあるのかな?』って思いました。」

 

- とっかりⅡ以外で?

「大好きなとっかりⅡでは働きたくなかったんですよ。大好きな店なので、大好きな店のままでいたかったんです。働いてしまうと好きで無くなってしまうだろうなって思ったんです。」

- ラーメン屋への興味が生まれて?

「ラーメンだったら、ある程度の料理の知識もあったのでいけるかもって。味噌ラーメンが当時、大阪に無かったのでいけるんじゃないか?って思いました。とっかりⅡしか美味しいのを食べたこと無かったし。それでインターネットで味噌ラーメンで検索したら"みつか坊主"ってのが出てきたんです。」


- みつか坊主との出会いは?

「それで食べに行って赤味噌らーめんを食べたんですが、美味しいと思わなかったんですよ。『あ、ここは違うな』って。でも味噌の作り方を知らなかったので学びたいので、もう一回行きました。すると多くのお客さんが並んでたので『あ、人気店なんや?』って。その時、2杯食べて『白味噌と辛味噌が美味しいな』って思い、これは何か学べるなって思いました。『求人とか出してるのかな?』って思ったら、レジの下に"夢を追ってる人募集。修行募集"みたいなのが見えて、その日の晩に電話したら、『君、一回転目にラーメン2杯食べた子だよね?あの紙を見て電話してきた人は君が初めてだよ』って。実際、その後の話なんですが、そこに修行募集なんか書いてなかったみたいなんですよ。でも僕には修行募集ってのがなぜか見えたんです。それで『僕、頭悪いんですが一生懸命やるので宜しくお願いします』って言ったら、採用してくれました。それが地獄の始まりでした(笑)。

- みつか坊主で働き始めて??

「まずはアルバイトとして働くことになりました。それで僕が遅刻5回してしまうってことが(苦笑)。(店の壁を指さして)あれが遅刻記念像です。2010年8月15日に贈られたものなんです。二度と遅刻しないように『戒めや』ってことで(笑)。みんなの一番見える所に置かれていました。1回目謝って、2回目謝って、5回目には土下座してって。『2ヶ月間給料無しでやるか?』って言われたり。この記念像が純金でできていて5~6万するみたいで『給料から天引きしておくよ』って言われて。それから遅刻はずっとしていません(苦笑)。

- 地獄の始まりとは?

「そうですね。斉藤さんは寡黙に怖い人で、西さんにはずっと怒られていて。今はみつか坊主もシステムが出来上がっていて、教育でもプレッシャーを与えない方針になっています。当時はなんせ初めて人を育てるって時でしたからね。斉藤さんが右って言っても、西さんは左。弟子の僕としては言われたことをまずやる。すると『お前なんで右やってん』『すみません』『なんで左やってん』『すみません』。でも僕は何も言えない。あとはみつか坊主、毎日1つ1つをハンドメイドで作っていたので、それがあまりにも難しくて。そして麺とスープが3秒以上、絶対に時間がズレないってのを徹底してたんですよ。それが難しいんです。一杯、一杯。湧いてないものを沸かしてから、その間にやらないことがいっぱいあって。それをお客さんの前で『右、左、後ろ、ネギ、チャーシュー、メンマ』って西さんや斉藤さんが声をかけて、僕が常に5時間くらいノンストップで動き続けるみたいな。それで僕は過呼吸になって倒れるんですよ。営業中のお客さんの前で(笑)。そのまま控室に引きずられていって『今日は終わりや』みたいな。そういうことをずっと繰り返しいて、1年くらいしてから『次、麺場をやってみよう』ってことに。またそれが難しくて『はい、麺入れて!なんとかして。走る』、『君、今まで何年生きてたん?何してたんや』って、お客さんの前で罵倒の嵐。」

 

- お客さんの反応は?

「確かお客さんが一番嫌うのは、店主がアルバイトに怒ってる姿なんですが、なぜかみつか坊主の場合、お客さんは拍手して『頑張れ~』って応援してる感じで(笑)。僕、たまに泣きながら働いていましたからね。最初はずっとそんなでした。」

 

- それでも働き続けれたのは?

「最初の1~2年は『絶対、この人達より美味いラーメンを作れるようになってやろう』って反骨心しか無かったですね。過呼吸になって、辛過ぎて、怒られ過ぎて、店の裏で吐いたりしてたんですよ。でも元々、野球をしてたし、料理人としての親父を見ていたので『負けるわけにいかない。絶対に見返してやるぞ』って思っていました。」

- 自分のやりたいことをできるように?

「ずっと頑張っていたら、ある日『自分のラーメン作ってみいへんか?』って言われたので、『作らせてください!』って言いました。賄いではたまに作らせてもらっていました。それが22~23歳の頃です。それから僕、3年間、一日も休んでいないんですよ。」

 

- それはなぜ??

「その時、西さんに『君は何になりたいの?どんなラーメン屋になりたいの?』って聞かれたので、僕は『大阪一の美味しいラーメン屋になりたいです!』って言いました。それで西さんが『じゃあ、こうしよう。君はこれから3年間、彼女を作らない。毎日、休みの日はラーメン食べに行ったり、イタリアン、フレンチ、和食の店に食べに行く。そしてそのまま店に作りに来る。君はそれを3年間し続けたらいい』って。僕の中で西さんは絶対的な存在だったので『はい!』ってなって、その日から3年間、友達とも遊ばず、毎日、みつか坊主で働いた後、疲れた体を引きずりながらどこかに食べに行って、食べたものをそのままインプットして食材を買いにいって、店に戻って作らせてもらっていました。そして次の限定や裏メニューに出すってのを1日も休まずしていましたね。その3年間、本当に集中してたので、料理のスキルもですがラーメンと自分の方程式みたいなのが出来ました。当時、"とっかりⅡ"や"虎一番"によく通っていて、一生懸命してる姿を理解してもらったのか、ある時から凄いいろいろ教えてもらえるようになりました。だからマスター(当時のとっかりⅡ店主)とか西山さん(虎一番 店主)はある意味、心の師匠みたいな存在です。」

- 独立はずっと考えていたんですか?

「はい。みつか坊主入る時からそれが絶対条件でしした。27歳までにするって決めていました。それを逆算して、どこまでに店長にならないといけないのか、2号店立ち上げとかもしないといけないのか、自分の幅広いラーメンスキルを付けないといけないのか、って。西さんに『逆算しないと無理やからね』って言われて、それで追い込んでいましたね。やれることを。」

 

- ずっと味噌?

「塩や醤油もメッチャやっていましたね。塩や醤油の良さを引き出す作り方と、味噌の作り方って全然違うので。味噌じゃ限界があるんですよね。出汁を効かせたりする時は、味噌は出汁を殺してしまうことが多いので、やっぱり塩や醤油の方が生かせるな~ってのがあったのでやっていました。それは一人でです。お客さんには出していないです。賄いとかだけですね。」

 

- そして独立?

「『1年前には絶対に伝えろ』って言われてたので、1年前の年末くらいに『来年いっぱいで僕は独立しようと思います』って伝えました。」


創作らーめん style林(2015年12月1日オープン)

- 場所は悩みましたか?

「正直、東京も考えていました。西さんは『林くんは実力があるから、西中島や福島のような激戦区で勝負するべき』って。僕はローカルで住んできた人間なので市内ってのは怖くて(笑)、ギラギラしたネオン街よりも、ローカルでラーメン屋さんが無いエリアで美味しいものを出してみんなに愛されたいって思っていました。でも当時、僕のファンが何百人もいたんです。僕がみつか本店から醸(みつか坊主2号店)に移れば、本店が暇になる。本店に行けば醸が暇になるって現象があったので。それで阪大生も多かったので『みんなが来やすい場所にした方がいいよ。』って言われて、東京はやめて、新大阪、福島、西中島で探し始めました。そして西中島で物件が1つ見つかって業者とかも既に動かし始めたんですが、それが急遽駄目になって『これはマズいな』ってなりました。それで車で物件探しをしていたら、塚本って一回も来たことが無かったんですがたまたま物件を見つけたんです。駅前だし、大阪から一駅。『ラーメン屋が無いな~。麺一盃さんがあるんだ?』とか。もう業者さんとかも動いてたので迷惑もかけたくないので、勢いで1週間でここに決めました。」

- 屋号の由来?

「"創作らーめん"って付けたのは、"いろんなのが出来る"って自分の自信も含めて考えました。メニューにあるラーメンは元々、全部が限定だったんですよ。みつか坊主時代に作った100以上の限定ラーメン中で『これ、他にないやろ?』ってみたいなラーメンなんです。北海道だけは僕の過去、みつか坊主とマスターにお世話になったって思いも込めています。とにかくオリジナルってのに重点を置いています。それで創作らーめんってことです。」

 

- "style林"は?

「style林ってのは僕が決めたんじゃないんですよ。最初、親父の店"まござ"って名前にしようか悩んでたんですが、ある日、メッチャ仲良い松村君("人類みな麺類"店主)と屋号について話してたら、『林さんは凄い独特のラーメンを作るので、style林!』って言われたんです。『それいいですね!』ってなって、style林で決めました。style林ってのは、僕が仲良くしてた人やお世話になってきた人達の結晶です。」



- そして2015年12月1日オープン!

「正直、平日オープンだったし、醸の立ち上げもしてたので、最初だけオープン景気でパッと来て、そのまま沈むぞって予想していたんです。『それからオペレーションを整えていこう』って思ってたんです。だからプレオープンもせずに、ぶっつけ本番のような形でオープンしたんです。当時は変な自信があって(苦笑)。」

 

- それでどうでしたか?

「『自分が作ったラーメン、ここまで大変なんや?』って気づいて、オープン当初は自分のイメージのラーメンが作れてなかったです。仕込んだものは間違いないのに、忙し過ぎるのもあって。直前調理がけっこう大変なんですが、そこまでのイメージが作れてなくて。『もっと美味しいラーメンなのに!』って毎日悩んでいましたね。それでもずっとお客さんの行列が止まらず、テレビでもせっかく紹介して頂いたりしたのに放送日から3日間臨時休業となってしまったり。正直、そこで躓きましたね。チャンスを一回逃したな~って思いました。」

- 現在は?

「オープンして1年と3ヶ月になるんですけど、やっとラーメンも自分のものになってきました。一歩一歩丁寧に作っています。高いのが嫌ってお客さんもいると思いますが、やってることは原価率で考えたらメッチャ高いことをやっていますので、それが分かってくれる方が増えてきてるので嬉しいですね。ウチは夜営業が基本で、夜にドッとお客さんが集まってくれています。これからも夜をメインに頑張っていきたいです。」

 

- 某ラーメン本の新人賞受賞しましたね?

「狙っていましたが、もう獲れないかな?って思ってた時期もありました。電話かかってきて『新人賞GPです』って伝えられた時は鳥肌立ちましたね。でも自分でやってみて思うんですが、まだまだ僕は勢いだけ、自分の思いだけでここまで来たんです。今はやっと難しさに気づいて、恐れ多いなって思うんです。新人賞を獲れたことは素直に嬉しいですね。」

 

- 今後?

「まだまだ凄い人がいっぱいいますが、味噌GPを獲りたいです。そしてみつか坊主が受賞したように、総合GPも獲りたいです。」


- なぜメニュートップが北海道風味噌?

「元々、みつか坊主時代に参加させてもらった某イベントで作ったものなんです。当時は巾着は乗せてなかったです。これは"みつか坊主"と"とっかりⅡ"、当時のをより美味しくする僕のイメージで作ったんです。メッチャ評判が良くて50人くらい並んだりしていました。それでこの店のメニュートップのラーメンとして決めていました。」

 

- トッピングの巾着について?

「流行ってる店って何か面白いトッピングが入ってるって思ったんですよ。みつか坊主もつくねがあったりとか、『有名な店って何か一個あるな~』って。オープン直前に決めました。全部ハンドメイドでしてるんですが、包む作業が死ぬほど大変なんですよ(苦笑)。それに味噌がしつこいな~って思う人もいると思うので、巾着に生姜とかも入れてさっぱりできたらな~ってのもあります。」


1周年記念の写真


- "みつか坊主"出身のプレッシャーは?

「最初は斉藤さんや西さんに厳しくされたことに反骨心だけだったんですが、途中からみつか坊主をどんだけ美味いって言わせる店にするか、みつか坊主のためなら何でもするって気持ちになっていました。だから独立する時も『絶対にラーメンシーンを揺るがすんや!』って気持ちでした。現在のみつか坊主はみんなが入りやすい店にするために形を変えていってるんですが、僕が知ってる斉藤さんや西さんはラーメンに対して厳しい人だったので、それを唯一知ってる僕が『メッチャ美味しい!』って言われる味噌を作って『みつか坊主に恩を返すんや!』って気持ちです。だからプレッシャーってよりは、僕が成功すればみつか坊主の名前も上がるって気持ちが強いですね。」

 

- 最後に自分の店について?

「僕は世の中に無いラーメンを探求しています。同じような味で美味しいって言われても、僕は『自分の存在が意味ないかな』って思っていて。style林のラーメン1つ1つが僕自身と思って作っています。だから提供は早くはないかもしれませんが、食べたことない味を出します。世の中に無いラーメンをこれからも発掘していきたいです。」



<店舗情報>

■創作らーめん style 林

住所:大阪府大阪市淀川区塚本2-23-9

Twitter:https://twitter.com/stylehayashi

(取材・文・写真 KRK 平成29年4月)