Vol.118:中華そば 無限


 2019年のミシュランガイド大阪・京都ビブグルマンが発表され、私とは何かと縁があるお店が掲載された。大阪市福島区にある"中華そば無限"だ。

 このお店と私の出会いは2011年4月だった。当時、大阪へ移転してきてまだ知名度も無いお店だったが、ネットで偶然に見つけてフラっと訪れてみたら"塩そば"の美味さに度肝を抜かれ、「こんな美味いお店がなんで無名なんだ?」と不思議に思ったものだ。お客様がいない店内で、岡田店主が私のカメラに興味を持って話しかけてきたのもよく憶えている。それがきっかけとなり、私が某人気テレビ番組で"中華そば 無限"を紹介し、無名だったお店はあっという間に行列店となった。

 あれから8年が経ち、岡田店主とは長く話していなかったので久しぶりにゆっくり話してみたくなった。"中華そば 無限"岡田店主にKRK直撃インタビュー!


- 出身は?

「大阪市内です。」

 

- ラーメンをする前は何をしていたんですか?

「え~っとね、かなりたくさんの仕事を経験してきましたね(笑)。焼肉店を大阪で10年くらいしていたこともあります。天六と上新庄、北巽で3店舗のオーナーでした。

 焼肉屋の後は、中古パソコンのPCショップの店長、派遣会社、レンタカーの回送業務とかもしていました。乗り捨てしたレンタカーを元の営業所へ戻す仕事で、遠い時は大阪から東京まで運転することもありましたね。」

 

- ラーメンはいつ出てくるんですか(笑)?

「もう飲食店はやりたくないと思っていたんですが、ある日、オーストラリアのメルボルンで"DON DON"という弁当屋をしている友人から国際電話がかかってきたんですよ。そのお店はかなりの繁盛店であの当時で4店舗展開していて、今は6店舗くらいになっているようです。当時、DON DONの2号店の夜営業が不振だったらしく、友人が『ラーメンをやりたいから、ラーメン屋に働きにいってノウハウを覚えてきて、それをウチのお店で教えてくれ!』と頼んできたんです。」

 

- いきなり凄い話ですね(笑)

「その時、無職でしたから(笑)。友人の話では、夜営業に自家製麺でラーメンをやりたいからって。現地では麺が売っていなかったから、自家製麺でしかできないんですよね。それでラーメン屋を何軒か面接に行ってみたんですが、全部年齢で落とされました。当時、もう49歳でしたからね。

 それで仕方ないので、大和製作所のラーメン学校に行って最低限のノウハウを教わってきて、それからオーストラリアに行って製麺とスープを教えたんです。ラーメン学校に行く前にもラーメン食べ歩きをして、家でも自作して勉強をしていました。」

 

- オーストラリアで教えたのは、どんなラーメンだったんですか?

「豚骨魚介で、横綱のようなラーメンでした。2週間ほど教えてから帰国して、しばらく経ってからまた2週間ほど行ったので、合計4週間ほどでしたね。」

 

- その経験からラーメン屋をしたくなったんですか?

「元々、焼肉屋をしていた時からラーメンが一番難しい料理って考えていて、自信が無いからラーメン屋だけはやめとこうって思っていたんですよ。でもオーストラリアでラーメンを教えてから帰国した時に、『自分でもラーメン屋ができるんじゃないかな?』と思ったんです。」


尼崎時代のお店の外観


- すぐにラーメン屋を始めたんですか?

「焼肉屋していた頃の仲間が物件を紹介してくれたので、兵庫県の尼崎市ですぐに始めることになりました。場所は尼崎駅近く、阪神電車の高架下でした。」

 

- 屋号の由来は?

「いろんな商売をして勉強をしてきたので、自分にはもっと可能性があるんじゃないかと思っていました。自分には無限の可能性があるって意味です。絶対に成功すると信じていましたから。」

 

- 尼崎のお店で提供していた商品は?

「塩そばと中華そばで、丸鶏と魚介のWスープでした。麺はパスタマシーンで作っていました。大きなボウルで混ぜて、うどんみたいにビニール袋に入れて足で踏んでから蕎麦のように伸ばして、パスタマシーンって作り方でした。当時、ネットで偶然に見つけたんですが、ある人がパスタマシーンをちょっと改良して小さい製麺機を作っている記事があったんですよ。それを真似していたんです。つい最近知ったんですが、その人が東京の"らぁ麺やまぐち"山口店主だったんです。」

 

- 尼崎ではどのくらい営業していたんですか?

「ワンオペで昼夜営業をして、1日で15人くらいしかお客様が来なかったんです。耐えれるほどの資金がもう無かったので、結局、1カ月半で一旦やめることになりました。」


中華そば 無限(2010年9月 移転オープン)


- それから大阪へ移転するんですね。

「尼崎の店をやめると決めてから2~3日経った頃に、知り合いから電話があってココの物件の話が来たんです。前は中華料理屋だったので、冷蔵庫や丼、ゆで麺器もあるということなので、すぐに見に来たんです。『こんな表通り!』って驚きましたね。尼崎の高架下に比べたら、天国みたいな立地ですよ。」

 

- それで僕が初めて来た時、中華料理屋みたいな雰囲気だったんですね(笑)。

「そうそう(笑)。あそこの席に座っていらしたんですよね。よく憶えています。僕が欲しかったデジカメを持っていたので話しかけたんですよ。当時、あのデジカメが欲しかったんですよね~。あの時は移転したばかりで、まだ誰もお客さんがいなくて暇だったしね(笑)。」

- 移転してきて、提供する商品は?

「尼崎時代のまま、全く一緒でした。ただ、スープの改良はずっとしていました。あの当時は限定も毎月していましたね。」

 

- 移転後、順調でしたか?

「こっちに来てやっぱりお客様が増えて、赤字にもならなくなりましたね。半年ほどはしんどかったけど、ブロガーさんとかが取り上げてくれて、食べログでも点数が上がってきて、1年ほどで軌道に乗りました。趣味がネットサーフィンでしたから、いろいろチェックしていましたね。」 


中華そば(2019年1月撮影)


- 看板商品を突然やめて、現在の商品にリニューアルした時は驚きましたよ。

「2年ほど前でしたね。そこそこお客様が入っていましたが、自分としては納得できるものが全然作れていなかったんです。自分の求めているものが10としたら、当時は3くらいでした。何度もやめようと思っていましたね。

 それでネットなどでいろんな食材を見つけては試作してを繰り返していました。ある時、ある業者さんが『名古屋コーチンのストックがかなりあるんですが、どうですか?』という話が来たんです。すぐに飛びつきましたね。」

 

- 名古屋コーチンは初めてだったんですか?

「初めてでした。それで名古屋コーチンで試作してみるとかなり理想に近いものができたので、店の商品をリニューアルすることに決めました。納得いくラーメンに近づいてきていると感じました。」

 

- 今の水鶏系になっていくんですね。

「水鶏系(鶏と水だけで作るスープ)をしたかったわけではなくて、名古屋コーチンの丸鶏が大量に入っていろいろ試作していると、シンプルに水鶏の方が美味しかったということです。」



- 昼営業だけにした理由は?

「体力的にしんどいんですよ。ガラと違って、丸鶏は炊く時間が長いんです。朝早いし、夜遅い。朝4時から店に来ているんです。コーチンの丸鶏のスープを作ろうと思ったら長時間炊かないといけないので、夜営業はできないですね。今は青森シャモロックも入れています。」

 

- 現在は家族で一緒に営業しているんですね。

「気の知れた者でやっているので、連携はいいですね。動きが分かるから、厨房の中でもあまりぶつからない(笑)。毎朝、開店前に一杯を作って、3人で味見しているんです。『今日はどうだ?どう微調整する?』とか話すんです。娘が一番味覚が凄いですね。」


ミシュランガイド大阪2019ビブグルマン掲載店


- オープン当初から取り組んでいる自家製麺については?

「麺は理想を10でいったら、8くらいになっていますね。お陰様でラーメンマニアだけでなく、一般の人からも麺の評判がとてもいいんです。ラーメン用の小麦粉と饂飩用の小麦粉を特殊なやり方でブレンドしているんです。いろんな比率で試行錯誤してきて、やっと今にたどり着いたんです。現段階では今の麺に代わるものはちょっと難しいと思うほど、今の麺は僕の理想にかなり近づいています。」

 

- 最後に一言お願いします。

「開店当初からずっと変わらないんですが、ラーメン職人として、男としてラーメン屋を始めたかぎりは大阪で一番になりたいんですよ。『どういうもので一番になるんだ?』と聞かれたら困りますけど、自分の中では尼崎で開業した時からの想いです。だから当然、ミシュランの星も狙っています。もう還暦ですから体力的には厳しいですがね(笑)。」



 <店舗情報>

■中華そば 無限

住所:大阪府大阪市福島区海老江5-5-10

Twitter:https://twitter.com/mugen_chukasoba

 (取材・文・写真 KRK 平成31年2月15日)