Vol.201:超多加水純手打ち麺 仁しむら

2020年12月16日オープン!


 近年、多くの実力店が集まってきてラーメン激戦区となりつつある東大阪市に新たな注目店が加わる。屋号は超多加水純手打ち麺 仁しむら」。店主は名門「天神旗」系列のお店からの独立者で、手打ち麺で勝負する。オープン直前の忙しい時期に取材する時間を作っていただいた。"超多加水純手打ち麺 仁しむら"西村店主にKRK直撃インタビュー!


◆店舗情報

超多加水純手打ち麺 仁しむら

大阪府東大阪市長堂1丁目28-14

オープン日:2020年12月16日

https://twitter.com/qmgsj23lxrxi3de



- 出身は?

「大阪です。」

 

- ラーメンをしようと思ったきっかけは?

「大学生の時に某ラーメン店でアルバイトを4年間していました。卒業後に某電気屋に就職したんですけど、やっぱりラーメンが恋しくなりました。接客が好きでしていたはずなんですが、いざ販売をしてみると全然違うなと思いました。できたモノを売るってのが自分には合わなくて、作って出してるからこそってことに気付きました。一年半ほどで退社し、アルバイトをしていたお店へ戻りました。それから5年ほどそのお店でお世話になりました。」

 

- 当時、独立志望はありましたか?

「まだ全くその気は無かったです。」

 

- そのお店を離れたのは?

「3年ほど店長をさせてもらいましたが、スタッフ教育などあってラーメンを作るのに集中できなく流れ作業的になってきて悩んでいました。その時に知り合いに『親富孝で一緒にやらないか?』と声をかけてもらいました。」


- 「天神旗」でなく「親富孝」に入ったんですね。

「そうです。だから僕は天神旗出身ではなくて、大鶴製麺の出身になります。豚骨でなくて製麺を習いました。」

 

- 親富孝に入って、どうでしたか?

「デカい店舗で従業員を抱えてするのと、個人店でするのは全然違いましたね。多くのことを学ばせていただきました。親富孝では4年ほどお世話になりました。」

 

- 親富孝にいる時に独立を考え始めたんですか?

「元々、親富孝の場所の契約を更新するかしないかだったんです。だから入った時から『ここで続けるか?自分で独立するか?』の選択肢がありました。店舗的にも1人でするには広過ぎたので、だったら自分でしようと思いました。」



- 屋号の由来は?

「元々はシンプルに"麺処にしむら"にしようと思っていたんですが、他の店と被ってしまうので(笑)。その頃にはいろいろ試作をしていたので、いきなりグニュっとした麺が出てきたら驚くと思うので"超多加水純手打ち麺"を屋号に入れようと思いました。"仁"にしたのは、元々、仁って漢字が好きだったからです。」

 

- メニューは決まりましたか?

「当面の間は"手打ち醤油"だけで営業をして、しっかり仕上げていきます。あとは限定で塩だったりを予定しています。手打ちなので1日60食ほどの提供になるので、夜営業は麺が残っている時のみになります。営業情報や売り切れ閉店などはtwitterで確認ください。」



- 手打ち麺をするきっかけは?

「自分の中でラーメンというのはジャンキーに仕上げたかったんです。最近は綺麗なラーメンが多くなってきていますが、僕はそういうラーメンよりもっと親しみやすいラーメン、ちゃんと作ったら美味しいものができると思いました。製麺機で作った麺で試食すると、麺もスープも美味しいんですよ。でも何かしっくりこなくて悩んでいた時に、大鶴社長に『手打ち麺をしてみたら?』とアドバイスを頂きました。出来上がりも毎回違うし、太さもバラバラだし、それって面白いなと思い、自分の中でポンっと嵌りました。」

 

- 麺ありきのスープ?

「元々は"スープありき"で鶏ガラで試作をしていたんですが、手打ち麺の話が出てきて、試作して食べてみると手打ち麺に鶏ガラが合わないので(鶏ガラを)抜きました。それから戻って逆算していって"麺に合うスープ"を考え始めました。それで豚骨清湯と煮干し、これが合うんじゃないかと思いました。清湯にしてはちょっと濁ってる感じですね。見た目はシンプルな中華そばですが、麺は他では出会わないモチモチのさらに上を行っているモッチモチの『なんやこの麺は?』と驚く麺になっています。」



- 名門出身のプレッシャーは?

「もうプレッシャーしかないです(笑)。店長とかさせてもらっていましたが、今までは出来上がったものをしていたので新規オープンというのは初めてなんです。」

 

- 西村店主が大事にしていることは?

「大鶴製麺の教えで"心一杯"というのと、"三ず"という考え方があります。飾らず、周りを見ず、手抜かず。その考えと手打ち麺をバシッと大事に守っていきたいです。」


 (取材・文・写真 KRK 令和2年12月12日)