Vol.237:らーめん奏


 今回取材するのは名古屋市のラーメンシーンを長く牽引してきた名店「らーめん奏」。ここ数年で東海エリアでも清湯をメインにしているお店が急激に増えてきたが、らーめん奏はその先駆者的な存在として位置付けられているお店の1つだ。昼営業の後に時間を作って頂けたのでいろいろ聞いてみようと思う。「らーめん奏」浅野店主にKRK直撃インタビュー!


 - ご出身は?

「岐阜県岐阜市です。」

 

- ラーメンをするまでの流れは?

「山梨県の大学に行っていて、卒業後にそのまま山梨で小学校の先生を2年間していたんですが、父親の病気で岐阜に戻ってくることになりました。それから岐阜で個別指導の塾の先生をしていました。その塾ではエリアマネージャーまでさせてもらっていたんですが、あるきっかけがあってラーメン屋をしようと思いました。」

 

- あるきっかけとは?

「僕は当時30歳手前で今後の人生このままで良いのかという漠然とした不安を抱えていました。仕事についても『授業の質はどうでも良いから生徒数をとにかく増やせ』という営業力偏重の会社の方針に疑問を感じていたんです。そんなある日、進路面談で生徒に『君たちのやりたいことをしていくことがいいと思う』という話をしていたら、ある生徒が『先生は塾の先生が好きでなったの?』と聞いてきたんです。僕はうーんと考えてしまいました。教えることは好きで教育系の大学に入って先生の仕事をしていたんですけど、果たして自分のやりたいことかと考えるとそうじゃないなと気付きました。生徒とのそんなやりとりはよくあることだったんですが、その時はその生徒の言葉が僕にはとても響いたんです。」

 

- 浅野さんのやりたいことは?

「自分の好きなことって何だろうなと考えたらラーメンが思い浮かびました。当時、ラーメンが好きで年間500〜600杯ほど食べていました。山梨の大学時代からずっと食べていて、塾で働いている時は岐阜県内を中心に食べ歩いていました。社長や上司に自分と合わないことを押し付けられてするよりは、一国一城の主人で全ての責任を自分で背負えるラーメン屋をしようかなと思いました。」


- ラーメン屋をすると決めてからは?

「どうしていいか全く分からなかったので、名古屋駅でJR東海の子会社がしている名古屋驛麺通りで働き始めました。当時はスープ工房で生スープを炊いていたし、ご当地のいろんな種類のラーメンの作り方、白湯から清湯まで多くのことを学ばさせて頂きました。休みの日とかはスープ工房に行ってラーメンの作り方を勉強させてもらっていました。」

 

- 独立へのタイミングは?

「入社式の時に3年で独立すると伝えていました。ちょうど3年経った頃に名古屋驛麺通りがリニューアル工事のため縮小営業になってそのタイミングで退職させて頂きました。」

 

- 名古屋ですると決めていたんですか?

「はい。辞める半年前くらいから名古屋市内を自転車で走って物件を探していました。」

 

- 作りたいラーメンは決まっていたんですか?

「漠然とですが無化調であっさりの清湯をしたいと決めていました。そして物件を借りて試作をして驚いたのは、自分の作るラーメンが全然美味しくないんです。無化調のラーメンは難しいとやり始めてから気付きました。当時はまだスマートフォンも無く、レシピサイトとかも無かった時代でした。そして困ったことに僕は変な拘りがあって、他では絶対食べられないラーメンを作りたい、普通のラーメン屋が使う食材は使わないとか決めていたんです。」

 

- 具体的には?

「鰯の煮干しは使わない、鰹は使わない、酒や味醂は使わない。それで鯛の煮干しと昆布、帆立を魚介系のメインにしていました。とにかく他の人が作らないようなラーメンを作りたいと思っていました。でも結局、美味しくなかったんです。」


◆2008年3月20日オープン

- オープン日が迫ってきて?

「オープン日を決めてから繰り返し試作を重ねていましたが、結局知識が無かったんですよね。だからオープンしてからも1年くらいは『どうしたら美味しくなるんだろう?』とやっていました。」

 

- オープン日は?

「2008年3月20日です。」

 

- 屋号「らーめん奏」の由来は?

「ラーメンというのは麺・スープ・具材を奏でることと思っていて、素材・麺・出汁・調味料、それらを丼の中で上手く奏でられるようにという想いで決めました。あとはスキマスイッチの曲『奏』が好きだったというのもあります。」

 

- オープン時のメニュー?

「塩、醤油、がっつりラーメン、トマトラーメンですね。」

 

- お客様の反応は?

「不味いとはっきり言われていましたね。ボロい所でしている怪しい店だったし(笑)。いつか見返してやるぞという気持ちで作り続けていました。」


- ターニングポイントは?

「東日本大震災ですね。外出していて凄く揺れて、店に戻ってテレビを付けたら津波の映像に凄く衝撃を受けました。次に東海地震、東南海地震があると言われているじゃないですか?次の瞬間死んでしまう。大切な人と別れてしまう。そういうことが起こるんだなというのを目の当たりして、悔いの無いように1日1日を大切にしようと思いました。それまでは自分の好きなラーメンを作っていればいいとのんびり考えていたんですが、心持ちが変わりましたね。」

 

- どう変わったんですか?

「当時、自分の作りたいラーメンをまだ作れていなかったんです。作り方がまだ納得できていませんでした。それで早くしないとって焦って、より真剣にラーメンと向き合うようになりました。

 そしてそういう思いでしていると、応援してくれる人も増えてきました。その中で知り合った方が『キントア豚(バスク豚)というフランスの超高級豚を使ってラーメンを作ってくれない?』と頼んできました。それがきっかけで業者さんと繋げてくれて、凄く美味しい豚だなと驚きました。それで新栄時代の後半はそれを使ってラーメンを作っていました。」

 

- それから移転をするんですね?

「メニューをガラッと変えてキントア豚に合うメニュー構成にしたいと思い、代官町に移転しました。代官町時代はキントア豚を使った清湯の醤油と塩、トマトに絞って営業していました。良い素材をしっかり使うと美味しいものができると知ったんですが、ある時、それでは面白くないなと思いました。良いものは使うけどコストに見合うようなバランスを取りながら、素材のしっかりとした組み立てで『良いものをふんだんに使ったラーメン』と同等のものができないかなと思い始めて、また移転をすることにしました。」



- 移転の理由は?

「代官町時代には雑誌等で幾つかの賞を頂きました。それでお客様にだいぶ認知されるようになったんですが、駅から遠いし駐車場が無い。より多くのお客様に来てもらうために今の場所へ2015年7月8日に移転しました。」

 

- 現店舗では?

「良質な鶏豚魚介、小麦をバランスよく使って、何か突出したインパクトは無いけどちゃんと美味しいラーメン。最先端の味では無いけど、いつでも食べてホッとする味。これをブラッシュアップして続けていこう。『ラーメン奏の味はこれだ!』と思える味をここ3年くらいで作れるようになってきました。」



- 影響を受けた店はありますか?

「僕は『支那そばや』のラーメンが好きで、昔、名古屋にあった『支那そば大黒』のラーメンに衝撃を受けました。今でもそのラーメンが常に頭の片隅にあり、その味を自分なりに消化したラーメンを作りたいとずっと思っています。」

 

-近年はミシュランや雑誌の賞をいろいろ取られて、世間からきっちり評価されていますね。

「いろいろ普通のラーメン屋さんが経験できないことまで経験できてありがたいんですけど、僕は、一貫して旨いラーメンを作りたいという想いを店で表現しているだけなんです。僕はお客さんや同業の仲間に恵まれてるだけだと思います。運がいいだけというか。お客さんが全然入らなかった新栄時代、『もっと評価されるべき店だし、いつか評価されると思うので頑張って』と励ましてくれた人や、良い材料を持っている業者を紹介してくれたり情報交換できる同業の仲間、そういう周りの人に恵まれて、支えられて今のこの店があるんだと思います。」

 

- 一番大事にしていることは?

「昨日よりももっと美味いラーメンを作りたいという気持ち。その気持ちを持ってラーメンと毎日しっかり向き合って、ラーメンの声を聞いて試行錯誤をしながら作っていきたい。同時にお客様の反応も見て自分の想いとのギャップを確認する。気にしなくていいギャップなのか、気にした方がいいのかと確認しながら作っていきたい。気持ちが行動に出るし、行動が結果に繋がる。そして結果を評価してもらう。しっかり美味しいラーメンを作りたい気持ち。お客様にわからない程度に常に少しずつ改良しています。」


◆店舗情報

らーめん奏

愛知県名古屋市昭和区阿由知通1-9

twitter:https://twitter.com/rmnknd

オープン日:2008年3月20日


 (取材・文・写真 KRK 令和3年11月11日)