Vol.341:麺坊 ひかり


 今回取材をするのは岐阜県岐阜市の名店「麺坊ひかり」。店主は神奈川の伝説店「中村屋」で店長まで上り詰めた方で、2005年に地元岐阜で独立開業してからは東海地域のラーメンシーンを力強く牽引してきた最重要店の一つだ。私が2009年に初めて岐阜県にラーメン目的で来た時に、真っ先に選んだ2軒中の1つが麺坊ひかりだった。その初訪以来、定期的に関西から通っているお気に入り店だが店主と話すのは今回が初めてだ。というか取材を受けているイメージが全く無いお店だったので、今回の取材依頼にOKしてもらえたことにとても驚いた「麺坊ひかり」小野木店主にKRK直撃インタビュー!


- ご出身は?

「岐阜市です。」

 

- ラーメンをする前は何をされていたんですか?

「元々はアパレル出身なんです。実家が服屋だったので、『家を継ぐからどこか修行できる所を紹介して』と親にお願いし、岐阜の某社で製造とかデザインの勉強をしながら働いていました。」

 

- 全く違うジャンルからラーメンへ来た経緯は?

「アパレル業界が不景気で年々給料が下がっていたんです。その頃に仲良かった福山通運のドライバーがいて、長く会ってなかったんですが久しぶりに電話がかかってきて現在の仕事や給料などについて話していたら、その友達が『今、ラーメン屋で働いていて店長になったけど人手が足りない。給料20万を出すからうちで働かない?』と言ってきたんです。それで即決でラーメン屋で働くことを決めました。」

 

- 即決ですか(笑)? 親は大丈夫だったんですか?

「僕の同級生の親が"九州ラーメン うまか"というラーメン屋をしていて、うちの親もラーメン屋の内情とかは知っていたんです。親に友人が働いているラーメン屋へ転職することを伝えると、親もアパレル業界が不景気になってきているので息子に跡を継がせることに不安があったらしく、『好きなようにしたらいい』と言ってくれました。」


- 飲食店で働くのは初めて?

「飲食の経験は全く無かったんですが、元々、僕は料理が好きだったんです。料理というかスイーツですね。自分で作った方が量を食べられるので、子供の頃から買ったりするよりは自分で作って食べるのが好きだったんです。」

 

- その友人のラーメン屋は岐阜県?

「名古屋の第一旭 錦店でした。岐阜から電車で名古屋まで通っていました。」

 

- 初めてラーメン屋で働いてみて?

「最初はお金に釣られて入ったので動機は不純だったんですけど(笑)、働いている内にラーメンって奥深いなと気づきました。毎日できるスープが違うことに驚き、面白いと嵌まっていきました。その時に働いていたスタッフも独立志向が高い人が集まっていたので毎日刺激を受けていました。」

 

- 第一旭から離れた理由は?

「僕を誘った友達は先に辞めていました。仲間同士で色んなお店を食べ歩いている内にラーメンのジャンルってこんなにあるんだと知り、他の味も学びたくなりました。それに第一旭 錦店で学んだことを岐阜でしても名古屋と近いので不安もありました。それで社長に気持ちをお話しした上で退社することになりました。」


- 学びたかった店は決まっていた?

「まだ全然絞り込めていなかったので、東京や大阪を食べ歩いていました。僕はアパレル出身なので飛び込みの電話が得意なんです(笑)。それで大勝軒に電話して山岸さん(故 山岸一雄氏)が対応してくださったんですが、『今、修行待ちが3人いるのでいつになるか分からないよ』と言われたので諦めました。それから永福町大勝軒にも電話したんですが、永福町大勝軒は製麺する所の屋根が低いのか身長が165cmまでとかの身長制限があったんです。それで駄目だと断られました。」

- なかなか修行店が決まらなかったんですね。

第一旭を既に辞めていたのとなかなかこれだってお店に出会えなくて悩んでた時に、コンビニでBiDANというヘアー雑誌が目に入ったんです。普段そんなの読まないのにパラパラと読んでいたら中村屋の記事があったんです。第一旭にいた時からみんなが中村屋のことを"ラーメン界のイチロー"とか言って湯切り(天空落とし)の真似をしていたんです。みんなラーメンが好きだったから中村屋のことを知っていたんですが、僕は全く知識ないから『何それ?』と思っていました。だからこの雑誌(BiDAN)を読んだ時に『みんなが話していたのはこの店のことか!!』と中村屋のことを知ったんです。」

 

- 偶然の出会いだったんですね。

「神奈川だったので一度食べに行ってみようかなと悩んでいた時に、第一旭時代の知人に『中村屋という店に行ってみようと思うんだけどどう思う?』と相談したら、『これから流行るラーメンは中村屋みたいなラーメンだと思うし、小野木さんのキャラも合っていると思いますよ』と言ってくれたんです。それで食べに行ったら本当に美味しくてビックリしました。僕はメンマが嫌いだったんですが、中村屋はメンマも美味しかった。まだ中村屋が3年目の頃だったんですが今まで食べたことないらーめんでした。」

 

- だいぶ気に入ったんですね。

「はい。それで店の外に"汐留店スタッフ募集"と書かれたポスターが貼ってあったんです。僕は土地勘が無かったのでこの店が汐留店だと勘違いして、その場で中村屋に電話したんです。その時は中村さんはいなくてスタッフに修行をしたいと電話で伝えた後、折り返しの連絡を待っている間はたまたま横浜で就職していた友達の家に泊めてもらっていました。3日経っても電話がかかってこなくて、その友達と再び食べに行ってみたら友達が『これは汐留の店主募集だからこのお店のじゃないよ』と教えてくれたんです。それで次の日中村屋に電話して求人募集と間違えて電話をした旨をスタッフに話し、また求人がある際には是非、働かせてほしいと伝えてくださいと連絡したらスタッフが『すぐ中村から連絡させます』と言われ、中村さんから直々に折り返しの電話をもらいました。中村さんは高山(岐阜県高山市)に凄く仲のいい友達がいて岐阜に良いイメージがあったようで、岐阜から来た僕を気に入ってくれたようですぐ翌日に面接してその場で採用してもらえました。面接時にこの味で自分のお店を岐阜でしたいと伝えていました。」


- 中村屋では店長もされていたんですね?

「中村さんが社長というポジションになった時に、働いていた弟子の中から僕と藤堂さん(藤堂店主)が呼ばれて『どっちか店長をしてくれ』となって、年上の藤堂さんへ店長を譲り、僕は副店長になりました。藤堂さんが独立した後、僕が店長をしていました。」

 

- 中村屋出身の同門は?

「静岡の麺処藤堂さん(閉店)、麺屋才蔵さん、神奈川の麺処懐やさん、らーめん丸心さん(閉店)、福井のらーめん福の神さん、東京の麺処富士松さん、らーめんMAIKAGURAさんですね。」

 

- 小野木さんから見た中村さんは?

「あの人が天才たる所以は、本当に勉強しているんですよ。異常なくらい料理が好きだし、発想がぶっ飛んでいるんです。定休日に『みんなで料理対決しようぜ!』とか中村さんが企画したりもありました。ラーメンじゃなくてもいいんです。弟子に料理対決をさせることによって自然と意識させずに多くの引き出しを作ってくれていたんです。それは独立してから理解しました。

 

- 良い話ですね。

「中村さんはカップラーメンが大好きで、カップラーメンの成分分析表を見ただけで同じような味を作ってしまうんです。あの人の部屋は料理の本ばかりなんですよ。だから僕も何か作る時、同じような技術は引き継いでいます。」

 

- 中村屋では何年ほど働いていたんですか?

「面接時には2年ほど修行したいと伝えていたんですが、2年が経った時に中村さんから『僕の代わりになる人間を育ててからにして欲しい』と話があり、僕も中村屋が好きだったので結局5年いることになりました。

 

- 中村屋から引き継いできたことは?

今も守っていることは、僕が辞める時に中村さんが僕に贈ってくれた言葉は『馬鹿であれ』だったんです。当時は『もっとまともな贈る言葉は無いの?汗』と思ったけど、独立して一国一城の主人になってからその言葉の意味がよく分かるようになりました。突拍子のないことをしてもいいんだし、誰かから後ろ指刺されようが気にしなくていい。自分のしたいことをしろ、と解釈しています。

 他には、中村さんは常に雑誌とかに載せられたラーメン写真より美味しそうに見えるように盛り付けろと言っていました。ウチのラーメンを食べる前にお客さんは雑誌やテレビで見てきて期待値が上がっています。待ち時間があるなら尚更。だからこそ、実際に食べる時にその写真とかより見劣りするようなのを出すとガッカリさせてしまう。だからそれより見栄えの良いものを出そうと常に言っていました。」


2005年10月1日オープン


- 岐阜での場所は?

「色々と探しましたがラーメン屋ってなかなか貸してくれないんです。揚げ物とかの臭いが付いてしまうからなんです。それで炒飯や餃子とかやらないと約束したらこの物件を借りれることになりました。」

 

- 屋号の由来は?

「漢字一文字の屋号に憧れていたんです。当初は奏とか候補があったんですけど、最終的に字画とかでこの漢字"炗"が出てきました。炗は光の古字なんですが『寸胴に火をかけているように見える文字だからいいな』と思いました。でも雑誌に載せる時とかに『漢字が出てこないので平仮名でいいですか?』と毎回聞かれるので、もっと他の名前にしたら良かったと思うこともあります(笑)。」

 

- 麺坊(めんのぼう)を付けたのは?

「昔、友人に『岐阜でラーメン屋をするならこの三軒くらいは食べておいた方がいいよ』と教えてもらったのが徳川町 如水さん、麺の坊晴レル屋さん、Love&Soltらーめん味やさんでした。僕の中のバイブルでBØYという漫画があって、その主人公が日々野晴矢(ひびのハレルヤ)というんです。だから麺の坊晴レル屋と聞いた時に『天才!超かっこいい!』と思ったんです。それで晴レル屋は流石にパクれないから、麺の坊を使おうと思ったんです。僕は"の"を取り、麺坊(めんのぼう)にしたんです。後に晴レル屋の和田店主と会った時にこの件はOK頂いています。麺坊なので未だに『めんぼう、めんぼう』と言われます(笑)。」

 

- 東京ですることは考えなかったんですか?

「高校時代からの知人に"銀のさら"の社長と常務がいるんです。僕が独立するとなった時にその常務が食事に誘ってくれて『その常務が食事に誘ってくれて『岐阜でやっても中村屋って知らない人の方がきっと多いから東京でまずやった方が早く軌道にのる、どうしても岐阜でやりたいなら、まずは東京でやって有名になってから岐阜に凱旋すればいい』と言ってくれていました。でも僕はどうしても岐阜でやりたい、最初にやりたいという思いが強くて。それに東京でやってる内に似たようなお店ができちゃうかもしれないし。でも今思えば、まずは向こうでしていた方が良かったかもしれません。」

 

- それはなぜ?

「正直、今でも僕の塩ラーメンが岐阜で受け入れられているとは思っていないんです。オープンした2005年頃の岐阜は完全な醤油ラーメン文化の土地だったので塩ラーメン店が殆どなかったんです。昔ながらの醤油ラーメンが好まれていたので受け入れられなかったですね。オープン当初は神奈川に近いもっと薄系の感じだったので、よくお客さんに『塩頂戴』と言われて目の前で塩を入れられたりもありました。」

 

- 難しいと予想はしていたんですか?

「していなかったんです(笑)。中村屋で1日で300食〜400食出ていたので、岐阜でも100食くらいは出るんだろうと思っていたんです。やっぱり有名店で働いていると錯覚してしまうんですよ。実際に岐阜でオープンすると1日10人くらいしか来てもらえませんでした。」



- 2005年のオープニングメニューは?

「塩と醤油のラーメンだけでした。あの頃はまだつけ麺はラーメンじゃないと言われていた時代なんです。大垣市の中華そば中村屋さんや多治見市のぶっこ麺さんもつけ麺を既にしていたんですがまだ人気に火がついてなかったんです。ウチでもたまに豚のつけ麺を限定でしていたんですけど全然人気なかったですね。それから何かで紹介されてからぶっこ麺さんのつけ麺が人気になり、第一次つけ麺ブームが来たんです。」

 

- それでつけ麺もメニューに加えていったんですね?

「清湯ブームがいつか来ると思っていたらつけ麺ブームが来てしまったので、お客さんからも『つけ麺もしてよ』と言われて、つけ麺を限定で一回したら評判が良かったので他のつけ麺も開発していったんです。今ではもう若いお客さんはつけ麺の注文ばかりになっていますね。昔からのお客さんはラーメンばかりと注文がはっきり分かれています。」

 

- 商品のネーミングも個性ありますね。

「屋号同様、漢字一文字がいいと思っていました。たまたま一宮の駅をぷらぷら歩いていた時に"牛ちゃん豚ちゃん寅"ちゃん"というお店(寅"衛門グループの店)があったんです。寅に点々が付いて寅"が『かっこいい!』と思って、ウチのつけ麺の名前をつけ麺 寅"としました。後に寅"衛門グループの社長さんにお会いする機会があって、つけ麺に名前を使わせてもらっていると説明して許可をもらっています。」

 

- 看板の柳麺の由来は?

「第一旭で働いていた頃、職人肌のおじちゃんがいて『ラーメンって漢字で書くとこうなんだよ』と教えてくれたんです。第一旭はストレート麺だったので柳の簾のような柳麺。ウチの麺も細くて長い麺だったので柳麺にしました。」



- 小野木さんの思う神奈川淡麗系とは?

「最近の淡麗って淡麗じゃないんです。今のは醤油バーンみたいな。そういうのじゃなくて本来の神奈川淡麗系はすっきりしているが薄っぺらではない厚みのある上質な味。煮干しが利いているとかじゃなくて、何が入っているか分からない、何が勝っているか分からない味。全ての食材がバランスよく調和しているらーめん。ただ、中村屋は特に材料を贅沢に使うスタイルで水と材料の割合が一対一なんで原価が高過ぎるんですよ。だからこれをやるお店が少ないんです。」

 

- お弟子さんは?

僕が弟子をとらない理由は、僕が辞める時はこの味を岐阜県から完全に消したいから。その方が面白くないですか?昔から言っているんですが、山口百恵さんみたいにステージにテボを置いて惜しまれつつ去りたいんですよ。」

 

- 小野木店主が一番大事にしていることは?

BARのように僕と喋りたいお客さんが来てくれたらいいなとオープンカウンターにしたんです。僕だって常連さんが来てくれて元気になる。ウチに食べに来てくれたことで明日へ繋がるきっかけになってくれたらいいかなとイメージしてやっていることもあります。

 意識しているのはラーメンを出した時に盛り付けが綺麗とか言われたいと思っています。今って麺と具が別とか流行ってきていますが、僕は一杯の芸術として丼の中で表現したいなと思っています。

  うちの開業時に掲げていた『扉を開けた瞬間から始まるびっくり箱でありたい。』というテーマがあって、食事というものは生きていく上で絶対に必要なものだから五感をフルに使って楽しんで食べてほしい。そういうことを大事にしています。」


◆店舗情報

麺坊 ひかり

岐阜県岐阜市柳津町蓮池5-8 リトルタウンヒロセ 1F

店ブログ

https://ameblo.jp/mennobo-hikari/

instagram

https://www.instagram.com/ramen_penguin/

オープン日:2005年10月1日

 (取材・文・写真 KRK 令和7年5月30日)