
今回取材をするのは大阪府吹田市の人気店「ラーメン工藤」。近年、日本各地でG系ラーメンの勢いが凄いが、大阪G系の人気店と言えばこのお店の名前を挙げるラーメンファンも多いだろう。店主と話すのは初めてなのでどんな話が聞けるか楽しみだ。「ラーメン工藤」工藤店主にKRK直撃インタビュー!
- ご出身は?
「オカン(お母さん)の実家が新潟なので生まれた瞬間だけ新潟で、その後はずっと大阪の吹田です。」
- 元々、ラーメンは好きだったんですか?
「オカンが農家の娘でベジタリアンだったんですよ。オカンが作る料理はめっちゃあっさり味でした。週末に親父が袋ラーメンを家で調理していて、それが唯一食べられるジャンクフードでしたね。たまにオカンの目を忍んで親父がラーメン屋へ連れていってくれていました。」
- ラーメンにハマるきっかけは?
「学生時代にマキシマム ザ ホルモンというバンドを好きになって、その人達がラーメン二郎好きを公言していたのでラーメン二郎の存在を知りました。当時、大阪にそういう系統のお店が無かったので、東京のおばあちゃん家へ行った時にラーメン二郎で初めて食べることができました。」
- 初の二郎はどうでしたか?
「衝撃でしたね。弟と2人で歌舞伎町のお店へ22時頃に食べに行ったんですが、『こんな量を食べ切れるのか?』と驚きました。ロットをギリ乱しかけたほどでした。」
- 味の印象は?
「只々美味い。脂の暴力にひれ伏しましたね。」
- 二郎を知ってしまってからは?
「色々調べたら大阪の西中島にもそういうガツ盛り系を出している笑福さんというお店があったんです。ちょうど"夢を語れ"が京都にオープンした頃のタイミングでした。それからは笑福さんで週2〜3回ほど食べながら、月一回はバイクに乗って京都の"夢を語れ"へ食べに行っていました。」
- 凄いペースですね。
「身体が求めていたんですよね。後々分かったんですけど、DNAを鑑定したら身体が求めているエネルギー要素が僕の場合はビタミンEと脂質を凄い摂取したがる傾向があるとのことでした。DNA的にも二郎が好きということですね。」
- 他のラーメンも食べていたんですか?
「二郎の前は天一(天下一品)にハマっていた時期もあって15店舗ほど廻っていましたが、二郎にハマってからは二郎系だけになっていきました。」
- 二郎系にハマっていく内に?
「しばらくして下新庄に歴史(歴史を刻め)ができてすぐに常連になりました。歴史にはお掃除クラブというシステムがあって、お店の周りを30分ほど掃除したらラーメン一杯無料というシステムでした。それで掃除して最終ロットで食べさせてもらうというのを週2回ほどしていました。」
- まだ食べる専門だったんですね。
「それから4年ほど経った頃に当時勤めていた会社を辞めることになり、何もすることがなくなったんです。その時に常連として仲良くさせてもらっていた藤原さん(歴史を刻め代表)が『工藤君、何もすることないならボストンに一緒に来る?』とボストンへ誘ってくれたんです。当時、夢を語れのマスターがボストンへ出店したところだったんです。」
- ボストンへ誘われるなんて、かなり仲良かったんですね。
「藤原さん、僕、歴史スタッフ2人の4人でボストンへ行きました。他の3人は仕事があるから1週間ほどで帰ったんですけど、僕はアメリカの空気が合い過ぎていて、そのまま残って90日間ほどボストンの夢を語れで働かせてもらっていました。二郎系のお店で初めて働いたんですが、凄く楽しかったですね。」
- 当時、いつかラーメン屋をしたいという気持ちは?
「全くありませんでした。楽しかったからやっていただけで、当時はラーメン屋をしたいなんて考えもしなかったです。」
- 帰国後は?
「歴史の下新庄本店で働き始めましたが、一カ月ほど経った頃に麺場の人が辞めることになったんです。次に誰がするとなって、僕が手を挙げて麺場に入ることになりました。」
- 不安はありましたか?
「引き継ぎの人から1週間ほどしか教えてもらう時間がなかったので不安があったので、週一で京都の地球規模(地球規模で考えろ)で教わっていました。歴史の昼の麺場をして、終わってから高速道路を走って地球規模の夜営業へ入るという生活を半年ほど週一ペースでして色々勉強させてもらいました。歴史の中で製麺の勉強もさせてもらっていました。」
- 麺場に立つようになって気持ちの変化は?
「その時に藤原さんから『お前が一番美味いと思うラーメンを作れ!』と言われました。常連として長く歴史のラーメンを食べ続けていた僕は、茹でれば茹でるほど歴史の麺が美味しくなるはずと思っていたので、通常7分ほどでみんな上げていたのに、僕は15分ほど茹でて提供していました。それが僕の中では限りなく100点に近いものだったんです。」
- ファンからの反応は?
「今までの歴史のお客さんの中には麺が柔らか過ぎると離れていった方もいたし、逆にこの柔麺がクセになる方もいました。それで2年半ほどしていたんですけど、ホントにもうめちゃくちゃ楽しかったです。自分が食べたいと思うものをお客さんに出して喜んでもらう。好きなことをして社会の一員になっていることが嬉しかった。だから僕は独立する気など全く無かったんですよ。ずっとこの会社にいたいと思っていました。」
2019年8月31日オープン

- 独立するまでの経緯は?
「僕だけ柔らかい麺を作っていたので、歴史のラーメンを食べに来た人が僕のラーメンを食べたら違う商品じゃないかというのが全体で問題になってきました。グループのイメージと商品を守るために、会社としては作り方を統一しないといけないとなりました。そして僕は自分が一番美味しいと信じるものを作っていける店をしたいと思い、独立を決心しました。」
- 場所は色々探したんですか?
「とりあえず歴史から生活圏内(商圏)が被っていない距離で、尚且つ、若干、土地勘や空気感が分かる所。他にはチェーン店が近くにあったり、道路が多かったり、駐車場があるところ、道端にタバコの吸い殻が何本かある所。8カ月ほど探していましたね。自転車で探していたんですけど、ここの前を通った瞬間にここにしようと一瞬で決めました。割と地元なので土地勘もあったし、ここだったら大外れすることもないと思いました。」
- 屋号「ラーメン工藤」の由来は?
「洒落た名前が思い浮かばないし、昭和のラーメン屋みたいな名前が逆に今は珍しいかなと思いました。他に候補も無く、すぐに決めました。」
- 外観など黄色が目立っていますね。
「ラーメン二郎のファンが見たらすぐに『そういうお店だな』と分かるようにしたかったんです。だから看板のフォントとかもそれに近いものにしました。」

- 自店の提供する商品は?
「歴史で作っていたのと少し変えています。軸となる醤油のところに手を加えて違いを出しています。」
- 麺も色々変化しているんですか?
「製麺は手探りで始めたのでなかなか上手くいかなかったですね。2年くらい、なんやったら今でも100点では無いです。茹で時間はあまり変えていませんが、配合などは少しずつ変えていっています。僕が食べたいものを作り続けているので今後も変わっていくと思います。」
- 限定も積極的に出しているんですね。
「思いっきりアホみたいなことをやってみようと、カエルの足をフライにしたのを乗せた限定とかもしましたね(笑)。でも僕が面白いとしたのは体感6割ほどの受けしか無い時が多いんですよね。」
- 工藤店主が一番大事にしていることは?
「お客さんにラーメンを作ることを忘れないようにしています。当たり前のことなんですけど難しいんです。作業のオペレーションとかを考えてしまうんですけど、1人のお客さんにラーメン一杯を提供することが根本にあります。僕は念みたいなものを込めながら作るんですよ。食べた時のお客さんのことを想像しながら作るんです。それが長年していると弱くなっていくんです。」
- 作業化になってしまうんですね。
「例えば『夜の仕込みの段取りをどうしよう』とか考えてしまうんです。そうじゃなくて、食べてくれるお客さんに喜んでもらうものを作るために、一人一人を意識してラーメンを作るということを忘れたらダメだなと思っています。ライブ感も大事にしていて、カウンターの高さもそうなんですけど、お客さんがラーメンを作っている工程を見れるようにしています。人と人とじゃないとできないようなサービスをしないといけないと思っています。」