Vol.359:麺屋 裕


 今回取材するのは2026年2月11日に大阪市都島区でオープンした超話題のお店「麺屋 裕」。元々は京都で営業していたお店でミシュランビブグルマンを5回受賞していた超人気店だった。2020年10月の衝撃の閉店から今回の大阪での復活。これほど聞きたいことが沢山ある取材は久しぶりだ。「麺屋 裕」高松店主にKRK直撃インタビュー!


- 生まれ育ったのは?

「京都です。小学校4年まで藤森でその後は山科で育ちました。」

 

- ラーメンは昔から好きだったんですか?

「僕は片親育ちで凄く貧乏だったんです。カップラーメンも買ってもらえなくて、子供の頃に『シーフードカップヌードルを食べたい』とお願いしても母親に『2週間我慢して!』と言われる感じだったんです。それからシーフードカップヌードルを買ってもらって妹と一緒に食べて、お母さんが残ったスープにご飯を入れて美味しいなと言ったのがラーメンを好きになった最初のきっかけでした。その思い出があるので今のラーメンもそういう感じ、シーフードになっているんです。」

 

- ラーメン屋に興味を持ったきっかけは?

「高校から20歳頃まではグレてしまっていて、何か問題を起こす度に母が山科にある"夜鳴きや"というラーメン屋さんへ連れていってくれていました。まだ先代がされていた時代で、先代に『お前、また悪さして来たんか!』と怒られていました。その頃からラーメン屋さんって何か人と人を繋ぐコミュニティみたいになっているなと思っていました。」

 

- それからラーメン屋に?

「建築とか色んな仕事をしてもなかなか続かなかったんですが、来来亭さんにアルバイトで入った時に何か楽しいなと思ったんです。お客さんがラーメンで笑顔になって帰っていくのを見ていると、全然違う世界観に魅了されていきました。気づいたらそれがずっと続いていて、休みもなく働いて楽しかったですね。」

 

- その時から将来は自分の店をしたいと考えていたんですか?

「はい。アルバイトをしている頃にみんなに『僕、ラーメンでミシュランを獲ります!』と言っていたんです(笑)。周りからは『アホなことを言うな。ラーメンでミシュランを獲れるはずないやろ』と笑われていましたね。」

 

- ラーメンに更にハマっていくんですね。

「来来亭で社員になって色々教わっている内に『来来亭の味の大元ってどこなんだろう?』と気になったので調べたら"銀閣寺のますたに"と知りました。ますたにさんがちょうど募集をしていたので来来亭を辞めて22歳で入りました。京都の背脂チャッチャ系のルーツを学びたかったんです。」

 

- ますたにでは?

「ますたにさんで働いている内に、同じ味で独立しても絶対無理だなと思い始めました。老舗=ソウルフードになっていて"安心感のある美味しい"と"新しい美味しい"は全然違う。自分のオリジナルを作れるようにならないといけないと思いました。それでますたにさんを辞めて宝産業さんに入らせてもらいました。」

 

- ラーメン屋じゃなく、宝産業を選んだのは?

「色んなことを勉強しないといけないと思ったからです。宝産業さんにはスープや麺、餃子などの工場があるので、入社時に工場へ入らせて欲しいとお願いしました。宝産業さんでは営業も含めて本当に多くのことを学ばせてもらいました。そして26歳の時に独立の意思を社長に伝えて辞めさせてもらいました。」


- いよいよ自分の店を出すんですね。

「小学校の時からの親友と共同経営で御陵に麺屋 夢人を出しました。それが僕の最初の独立店でした。」

 

- どんなラーメンで?

「夢人の味は僕が作っていたんですが、共同経営の友達がつけ麺を希望したので流行っていた"またおま系(豚骨魚介)"をライトにした感じで鯖を使ったつけ麺でした。」

 

- 夢人から離れることになったのは?

「僕の家庭の問題が理由で夢人から離れて自分の店を持たないといけなくなりました。山科のグルメシティひかり屋というスーパーの一階で、麺屋真斗というお店を2012年10月に出しました。」

 

- どんなラーメンを出していましたか?

「僕が昔から好きだった鶏白湯がメインのお店でした。誰にも知られ難い場所だったのですぐに経営が悪化していきました。その頃に夢人の友人のお兄ちゃんがつけ麺のお店をしたいという話しがあり、三店舗目は雇われ店長兼味作りという感じで山勝麺三を2013年6月に出しました。つけ麺で鶏白湯と魚介を合わせた味でした。」

 

- 色んな店に関わってきたんですね。

「麺屋真斗を閉める頃に今の嫁と出会いまして、どの店もうまくいっていなかったので嫁が『何かもう一つ勝負できるのはないの?』と聞いてきたんです。それで『実は一つだけずっと研究してきたのがある』と答えました。母の友人でトラックの仕事をされている方がよく北海道から蟹を買ってきてくれていたんです。お母さんがその蟹をストーブに乗せて塩をかけて食べるのが好きだったんです。その時からこの味だなと思って研究していたんです。それが蟹塩そばでした。」

 

- 蟹塩そばをずっと出していなかった理由は?

「僕は研究好きなので、宝産業の時からずっと研究していました。夢人でも蟹塩をしたかったけどできなくて、山勝麺三の時は試作を始めていました。塩ラーメンで美味しくするってメチャクチャ難しかったんですよ。ボディがしっかりしていないとダメだし、ラーメン独特のジャンク感も大事にしたかったんです。」

 

- 奥様に蟹塩の存在を伝えてからは?

「それを言うと嫁が『食べさせて!』と言ったので最終仕上げに1週間だけ時間をもらってから、山勝麺三の賄いで嫁に出しました。その時に嫁が泣きながら食べてくれて、『この味でもう一回勝負しようよ』と言ったんです。それで2014年3月に千本通で麺屋 裕を出しました。」



- 屋号「麺屋 裕」の由来?

「実は開業3日前までラーメン真斗でやろうと思っていたんですが、その頃に疎遠になっていた親父から連絡があって仲直りをしていたんです。それで親父が『せっかくラーメン屋をするなら、お前は裕人という名前なんだから麺屋 裕でやった方がいい』と言ってきたんです。うちの看板に"粉場打ち無手先謹製"と書いているのも親父が『石場打ちってのは城を建てる時に石を積み上げてやるだろう?小麦も積み重ねて麺帯生地にしてするんだから粉場がいい』。そして無手先というのは欲の無い手で心を込めて作りましょうという意味なんです。もう亡くなってしまった親父からの助言でした。親父がつけてくれた屋号、蟹に塩を振って喜んでいた母の姿、嫁が食べて泣いてくれたラーメン。僕の重要な人が関わって麺屋裕の全てに繋がっています。」

 

- 麺屋裕をオープンしてからは?

「真斗や山勝麺三時代はコストから入って作ってきたので、麺屋裕では原価は無視して、美味いものを作って知ってもらわないといけないと思っていました。」

 

- 山科へ移転のきっかけは?

「オープンした当初はお客さんが全然来なくてオープン景気も無かったです。知り合いのラヲタさん達が来て色々と広めてくださっていました。その頃にテレビ(関西ラーメンファイル)で紹介してもらってから流れが変わり、やっと注目してもらえるようになりましたね。そして京都ミシュランのビブグルマンに選ばれて、それ以降は逆にあの場所では並び過ぎ問題が出てきました。それで山科へ移転することを決めました。」

 

- 山科を選んだのは?

「地元だったのもありますし、他の場所を探す時間も無かったです。山科のあの物件は母の知り合いの方が持っていた物件でした。そして2017年4月にオープンした時には全く予想もしてなかった大行列で驚きました。」

 

- これまで蟹塩そばへの想いはブレなかったんですか?

「誰もしてなかったですし、家族など僕の大事な人たちが関わってきたルーツ。蟹塩をやめるとその人たちとの思い出もなくなる気がするのでこのラーメンでずっとすると決めています。」

 

- 山科では順調だったんですか?

「色んなラーメン店主との付き合いも増えてきて、憧れていた有名店の店主さんの食材への拘りにかなり影響を受けました。その頃から生産者さんに会いに行ったり、伏見に水を汲みに行ったり、村田農園さんへネギ狩りに行ったりとかをするようになりました。そうすると段々と時間が無くなってきて昼営業だけしかできなくなってしまいました。全部は拘れないので、自分の大事なポイントだけ拘っていこうと決めたのが山科時代でしたね。しかしその生活になった結果、嫁が病気で倒れてしまってお店を閉めないといけなくなりました。」



- 何が起こったんですか?言える範囲で教えて下さい。

「商品の原価が50%を超えてしまっていましたが、お客様が喜んでくれていたし僕も楽しくやっていました。只、家庭を支えていた嫁は疲弊してきていたんです。でも僕は嫁が倒れるまでそれに気付いていなかったんです。それでもう今月で店を閉めようと決めました。僕にとっては嫁と子供が大事なので10月16日に閉めようと決めて、10月末で閉店しました。閉店すると発表したら大変な騒ぎになるので、何人かの常連さんにだけ伝えて静かに閉店しました。」

 

- 当時の気持ちは?

「夫婦2人でずっとしていきたいと思っていたので悔しかったですね。でも19歳の頃からの夢だったミシュランも叶ったし、僕ら夫婦ができる最上級は達成できたのでこのまま綺麗に終わるのもいいかなと思いました。」



- それから5年間は何をしていたんですか?

「インターネット回線を引いたりする電気通信業の会社で働いて、そのままその仕事で独立しました。豊橋や広島でその仕事をしている内に今いてるスタッフの子たちも入ってきて、新たにルームエアコンをする事業も始めたりしていました。」

 

- ラーメン業界との関わりは?

「その会社をやりながら、ラーメン業界の知り合いとの関係も続いていました。"麦の夜明け"の伊藤くんの独立のお手伝いをしたりもしていました。伊藤くんとは京都ラーメンダービーにも一緒に出て優勝もしました。それ以外にも愛媛の一誠(まつやま帆立豚骨ラーメン 一誠)という店の味作りを手伝ったりとかもしていました。」

 

- ラーメン屋への未練はありましたか?

「もちろんありましたが、僕は嫁にも迷惑かけるくらい経営が苦手なので無理だと思っていました。」


2026年2月11日オープン


- 今回の大阪での復活までの経緯は?

「昔から家族ごと僕の店のファンだった荒木という友人がいてずっと付き合いは続いていたんです。荒木は税理士事務所に勤めていたので、僕の会社(電気屋)もあまりうまくいってなかったし若いスタッフ達もいるので荒木に相談したら『またラーメン屋をやりませんか?』と言われたんです。『やりたいけど俺は経営下手やし』と言うと、荒木が『麺屋裕を復活しませんか?僕も食べたいんです。」と言うので『えっ?組んでやってくれるの?』と聞くと『いいですよ』と言ってくれたんです。それが今から2年前で、それから会社を立ち上げることになりました。」


(取材時、隣にいた荒木さんに)

- 荒木さんはずっと復活を願っていたんですか?

●荒木さん「はい。またあの味を食べたいとずっと思っていました。」

 

(再び高松店主へ)

- それで決心を?

「本気で仕込みをしていたら経営に時間を取れないんです。それに若いスタッフもいるのでちゃんとした会社にしてあげないといけないと思っていました。それで会社を作って業務を分担してやっていこうと動き始めました。」

 

- それがSNSでの資本系とかの噂へ繋がったんでしょうね。

「僕もびっくりしましたね(笑)。もしそれが事実なら梅田とか京都駅前に出すと思うんですよ。ラーメン屋のM&Aも流行っていますし、実際、山科時代は某有名企業からそういう話がありました。」

 

- 当時、その話を断った理由は?

「やっぱり売れないですよ。麺屋裕の全てには今まで話したようなルーツがあるので、魂を売るようなものに感じたので流石にできなかったです。」



- 復活するのに大阪を選んだ理由は?

「当初は京都で探していたんですがインバウンドの関係で前にしていた家賃相場と倍くらい違いました。僕は"夜鳴きや"の大将に憧れているので、出来るだけランニングコストを安くしてお客さんに週二回とか通ってもらえるような価格帯でラーメンを出したいと思っているんです。そして京都で決まりそうだった物件があって11月オープン予定だったんですが突然ダメになったんです。もう電気屋もやめていたし困りましたね。それからも京都ではなかなか見つからず、大阪も視野に入れ始めました。」

 

- この場所は?

「大阪では梅田から通えるようなエリアで探していました。社員が4人いるのでみんなに給料を払っていくために、キャパが前より広い物件を探していました。そしてここが見つかり2月11日のオープンへ動き始めました。」



- 京都時代から変えたところもありますか?

「ラーメン屋をやめたのに電気屋をしている間も色んな食材の研究はしていたんです。山科の時はワタリガニを使っていたんですが、北海道産の蟹が美味しいと分かったので今回は北海道産のオオズワイガニをメインにすることにしました。ワタリガニの時は独特な蟹臭というのがあったんですが、今の北海道産オオズワイガニは根昆布とか食べている蟹で味がクリアーになっています。蟹臭が好きって人は前の方が好きと言うかもしれませんが、今の方がクリアーで好きな方も多いと思います。クセがないので他の食材とのバランスも取れていると思います。」

 

- 蟹の入荷は安定しているんですか?

「自分で苦労して作ったルートを通して北海道でウチ用の蟹を4トン、倉庫に抑えてもらっているんです。直ルートでの仕入れになるのでコストはかなり抑えられています。」

 

- 他の食材は?

「山科の頃からお世話になっている川中さん(かしわの川中)から淡海地鶏を仕入れています。ネギは社長さんがネギの全国会長をされている村田農園さんから季節ごとの旬のネギを卸してもらっています。」

 

- 麺はどうしていますか?

「以前は手打ちでしていましたが重度の腱鞘炎でドクターストップになってしまったんです。そして今回から量を増やして安定させないといけないので不二精機さんの製麺機を使っています。ほぼラーメン屋さんでは使われていない丸刃の18番でお客さんが未体験の麺を作れたらと取り組んでいます。この麺に負けないように結構重厚感のある清湯に仕上げています。僕は自分のスープを重厚清湯と呼んでいます。」

 

- 僕が初めて麺屋裕で食べた千本通でのお店時代から姫竹を使っていましたよね?

「嫁が普通のメンマが大嫌いなんです。それで全く違うものにしないといけないなと思い、京都の濃いめ、昔の煮物のイメージで嫁が食べられるメンマということで姫竹で作りました。」



- 最後に高松店主が一番大事にしていることを教えて下さい。

「『ラーメンとは人と心をつなぐもの』という言葉を大事にしています。僕は家族や生産者さん、お客様、多くの人たちから支えられてきました。幼少期にシーフードカップヌードルを食べた時のことをよく思い出すんですけど、僕もラーメンを通して色んな人を幸せにしないといけないと思っています。そしてラーメン業界の上の方から刺激を受けて続けてこれたように、僕も若い世代に何かを繋げていける存在になれたら嬉しいなと思っています。」



◆店舗情報

麺屋 裕

大阪府大阪市都島区都島北通2-1-29 

https://x.com/menyahiro0212

instagram

https://www.instagram.com/menyahiro_phase2

オープン日:2026年2月11日

(取材・文・写真 KRK 令和8年2月13日)