Vol.39:麺屋號tetu

滋賀県長浜市。長浜城の城下町として栄えたこの街には戦国時代の史跡が多く残っていて、多くの観光客で賑わっている。ラーメンファンからすると関西の最北端ってイメージでとにかく遠い街!しかし困ったことにこの街には関西屈指の美味しい鶏白湯ラーメンがある。屋号は「麺屋 號tetu」。看板の鶏白湯で大人気の店だが、鶏清湯も恐ろしく美味い。だからちょっと北へ行くと北陸に入るってほど遠いこの街へ多くのラーメンファンが足頻く通っている。私の印象では2010年11月に突然現れたって印象の店だから謎が多い。いろいろ聞きたいことがあるので、久しぶりに長浜市まで行ってみることにした。「麺屋號tetu」田中店主にKRK直撃インタビュー! 


- 出身は?

「滋賀県長浜市です。後に合併して長浜市になったんですが、旧浅井町って所です。」

 

- ラーメンには?

「高校3年生くらいに長浜の地元の中華料理屋さんでバイトしてたんです。最初はフロアーでしたが、途中から作らせてもらっていました。働いてる内に料理がとっても楽しく感じるようになったんですよ。その中で麺入れて、スープ入れて盛り付けてって感じで。中華全般をちょこちょこさせてもらっていました。」

- 気に入ってたラーメン屋は?

「その頃、時々、敦賀市のラーメンの屋台に友達と食べに行っていました。『わざわざ県外にラーメン食べに行く』って感覚がしびれて、『なんで僕ら敦賀までラーメン食べに来てるんやろ?』って。美味いものにガソリン代かけて、時間作って行く。別に地元でも食べられるのに、凄く不思議な感覚に落ちいったのを憶えているんですよ。その頃、滋賀県内でちょうど来来亭さんが3店舗くらい展開していた時で、野洲の本店にも食べに行ったんです。そしてその行列にまた痺れたんですよね~。それで『僕も将来何かやりたいな』って感じてから、ラーメンに嵌まりましたね。」

 

- 当時、長浜のラーメン事情は?

「当時はもう何にも無かったですね。長浜でラーメン屋っていえば、天下一品、近所のラーメン大学さん、昔ながらのどさん子さん、それくらいでしたね。だから滋賀県の田舎の人間からしたら『ラーメン』ってのが凄く斬新でした。『敦賀では屋台で何軒も出してはる』って。そして当時は美味かったんですよ。僕、凄く好きで、毎週のように敦賀まで食べに行っていましたからね。」

 

- ラーメン食べ歩きとかは?

「僕、意外と全然ラーメン屋さんを知らなくて、他で食べたこともあんまり無いんです。ホント敦賀の屋台くらいでしたね。みんなに『胃の中の蛙』とか言われてて、もっといろんな店で食べ歩かなあかんって言われていましたね。それが高校3年生の頃です。」


- そして?

「僕、元々、親父が建築会社の社長で跡取りだったんですよ。だから小さい時から『僕は跡継ぎだから』って勉強もしなくて卒業だけしたらいいって。建築に携わる仕事しか考えてなかったんですが、ある時、親父が仕事を失敗して会社もやめるって話に。その時、自分の中で残念って気持ちよりは、どこかで『チャンスかな?』って気持ちが少しあって、働いていた中華料理屋さんに『ここで教えてもらった料理が大好きで、弟子入りでなくてもいいのでいろいろと教えて欲しいです!』って話したんです。マスターに『中華料理屋をしたいんか?』って聞かれて、ラーメンを最近食べに行ってて凄くラーメンが好きでって話したら、『いいよ』って本格的に働かせてもらうことになりました。それからスープの取り方とか中華料理全般のやりかたを教えてもらいました。全然、ラーメン屋さんではないので、スープの取り方とかも全然違うんですよね。中華って普通は清湯で出汁を引いていくんですが、そこはなぜか白湯で引いてはったんですよ。全部出汁を。今思うとシャバイ鶏豚骨を炊いてはったなってイメージ。昔ながらに野菜、生姜、ニンニクとか入れて炊くのを教えてもらったり、処理とかも教えてもらいましたね。」

- 料理を始めて?

「マスターから『それなら本格的に中に入るか?』って。僕は何か面白いことを見つけると没頭するタイプなので、この中華料理屋でしっかり仕事させてもらいました。そして高校を卒業して、料理したいしラーメンしたいなって思い、そのまま中華料理屋さんで働き続けることにしました。」

 

- それから?

「この頃から波乱万丈で(笑)。親父は商売失敗して借金。中華料理屋のオーナーさんも集客が全然無かったから『商売をやめる』って言いだして。で、『僕はどうしよう?』ってなりました。家にもその当時お金が必要だったし。そしてその頃、母親が家で天ぷらしてて大やけどしてしまって。親父はどこかに行ってしまうし。それで『僕が家を支えていかなあかん』って状況になってしまって、ラーメンの夢をあきらめて、工場で働くことになりました。」

- そこでは?

「そこでは2年間くらい働かせもらいましたね。でも一回はあきらめたんですが、どうしてもラーメン屋をしたいし。それで遠い親戚の人がレストランバーをしてて、『お前は中華のウデもあるし、ウチでは肉の技術も教えれるし』ってことでウチに来いやって言ってくれて、工場で働きながら週1~2回、そこでもバイトをさせてもらうことに。周りは『ラーメン屋をしたいなら、どこかのラーメン屋に弟子入りしたらいい』って言ってくれるけど、家を支えていかなといけない時だったので行けるような状態じゃなかったんですよね。それである時、『それだったら僕は独学できちんとしたラーメンを作れるようになろう』って決めました。」

 

- 再びラーメンに?

「その時、今でも持ってるんですが、『プロの為のラーメン本』ってのを購入しました。佐野さんや大勝軒が全盛だった頃の技術本です。その本をボロボロになるまで死ぬほど読んで、それから家に大きな五徳のコンロと寸胴だけ買って、ずっとひたすらスープを炊いていましたね。それが20歳の頃です。ずっとスープを炊いてて、自分の中で『けっこういい感じでできるやん?』って感じになってきて。麺も見よう見まねでそこに置いてるパスタマシーンで作ってみたりしてました。当時から斬新なことが好きだったので、バジルを練り込んだ麺を作ってみたりとか」。

-それから?

「その間も工場勤務は続けていたんですが、どうしても嫌でして『なんとかこの生活を抜けださなあかん』って思い、母ちゃんに『ごめんやけど、やっぱり料理したいんや』って話しました。やっぱり親父がいない分、どこかで住み込みでってのは不可能だったし、近くの料理屋さんでって考えてもラーメン屋さんってのが地元に無かったし。ちょうどその時に電話してくれはったのが中華料理屋さんのオーナーさん。オーナーさんの親戚が3店舗くらい展開してる大きなスーパーを経営していて、『そこで働くことになった』と言ってきました。それで『お前、まだ料理に興味あるんか?』って聞かれて、『ラーメン屋じゃないけど、ちょっと手伝ってくれへんか?』って。それで工場を辞めて、そのスーパーで働かせてもらうことになりました。僕は惣菜の中華担当で、店とは別のセンターで働かせてもらっていました。『ラーメン屋をする夢だけは忘れたらあかんよ』って言ってくれていて、そこでスープ炊くことや、いろんな食材を使わせてもらい勉強させてもらいました。そこでは3年くらい働かせてもらいましたね。」

 

- スーパーの仕事はどうでしたか?

「みんな知らないと思うんですが、スーパーって凄い人がいっぱいいるんですよ!精肉コーナー、野菜、鮮魚、果物、スペシャリストがいっぱいいるんです。そこでいろんな人にいろんなことを教わることができました。ラーメンってよりは、料理の方を主軸として勉強させてもらっていましたね。魚捌いたり、肉を切らせてもらったり、野菜を契約農家から仕入れてくるのを見させてもらったりとか。その生活が凄く楽しくて、『ここで食材にずっと携わっていたいな』って気持ちも出てきました。」

 

- しかしスーパーを離れることに?

親父がへこたれてるのかと思ったら、違う業態、運送業界の方で自分で会社を作っててガーってやり始めたんです。それで親父に口説かれたんですよね。元々、親父の跡取りってことだったし、それでスーパーを辞めて、親父と一緒に運送業をすることに決めました。その時、『料理の世界から抜けてしまおう』って決心しましたね。それから親父と一緒にやり続けてたんですが、どうしても合わなかったんですよね。」


ターニングポイント

- 再びラーメンへの気持ちが戻る?

「ちょうどその頃、ラーメンにっこうさん、麺屋ジョニーさんとか本格派のラーメン屋さんが出てきたんですよ。それが10年くらい前ですかね。『やっぱり料理がしたいな』って思ってた時、それらの店へラーメンを食べに行ったんです。どの店も凄く美味しくて、そして一番衝撃を受けたのがラーメンにっこうさん。にっこうさんの鶏白湯!運送屋をしながら昼ごはんで食べに行った時に、もう泣きましたね。『僕がしたかったことってこういうことだったんだな』って。食べながら涙が出てきましたね。シビれるというか、只々泣けてきました。そして大垣市の真屋さん。あそこの鶏白湯を食べた時もシビれましたね。『俺の道はこっちやで』って。」

 

- 再びラーメンの道へ?

「また家でスープを炊くことを始めました。そして親父に話して運送屋をスパって辞めさせてもらうことに。そして前に働いてたスーパーでまた働きながら、1年くらい独学でラーメンを作ることに入り込んでいました。そしてなんとかオープンまで辿り着きました。それが27歳の時ですね。」


The Ra-men Style號tetu (2010年11月10日オープン)


- 屋号の由来は?

「號tetu」の號ってのは大正時代の漢字で、中国語で『ここにいることを存在で知らしめる』って意味があるんです。その『號』って漢字が昔から使いたかったんですよ。でも號だけじゃ字が強いって言われて、当て字で號を入れて『號tetu』。ローマ字にしたのはただの思いつきですよ(笑)。號って漢字がメインです。」

 

- 店の場所は?

「けっこう物件は探しましたよ。彦根とかも。なかなか物件が見つからなかったですね。ある日、知り合いから『豊国神社が商売の神様なので、商売するならお参りに行っておいたら?』って言われて、それでこの場所を偶然に通ったんですよ。この道なんて通ったこと無かったんですが、前を通ったら貸店舗って書いてあって、『あれあれ?』って思って大家さんに電話して会って、それからはもうとんとん拍子で。当時は駐車場が無いことが長浜の中では『斬新過ぎてありえない』ってことで、どうしようか悩んだんですよ。周りからも『ラーメン屋で駐車場が無いってのはありえない。冒険過ぎるやろ』って言われていましたね。でも『独学でここまで来たから、潰れる覚悟でやったるわ』って決心しました。そして2010年11月10日、オープンしました。」

- 號tetuのラーメンは?

「やっぱり鶏白湯ですね。長浜では鶏白湯は無かったですしね。鶏白湯と、一応、清湯も出していました。」

 

- 麺は?

「当時から棣鄂さんの麺は知ってたんですよ。オープンの前に電話したんですが、当時、棣鄂さんが工場を変わる時だったので『今はキャパ的に無理なんです』って断られたんです。それで1年くらいは違うところの麺を使っていました。」

 

- 集客はどうでしたか?

「全然来なくてやばかったですよ。お客さんが3人だけの日とかもありましたから。



- お客さんが増えてきたのは?

「2年目くらいから少しずつ増えてきましたね。大変な時期がだいぶ続きました。でも自分の中でラーメンを完成させたかったので、ひたすらスープをとり続けていましたね。」

- ブレイクのきっかけ?

「Odecakeって雑誌。滋賀県だけの雑誌なんですがね。『ラーメンのビジュアルが綺麗だったから』って理由で表紙にしてくれたんです。地元のこの雑誌に出たのは大きかったですね。『表紙に載ってる店って此処のラーメン屋さん?』ってことで話題になって、大津とか八幡、草津とかあっちの方の人達も来てくれるようになりました。この本が出た二日後に、初めて店の外に待ちの列ができましたね。」

 

- 今後?

「現状でいうと、人材不足で限定も全然できてない。今はとにかくレギュラーメニューを食べてもらって、レギュラーメニューをしっかり作り上げていきたい。夜営業を休ませてもらってる間、スープの勉強も続けさせてもらっています。」

- 田中店主の大切にしてること?

「とにかくラーメンに拘り続けたい。ここ最近は特に食材に関して凄く勉強したいって気持ちがあります。今後は使ったことない食材をどんどんラーメンに取り入れていきたいって思います。もう1つ、今思ってるのは白湯もそうですが、清湯の方ももっとしっかりとしたものを出していきたい。そして自家製麺と無化調も。ちょうど1週間前から自作してた頃に使っていたパスタマシーンで練習をまた始めていて、今度、大和製作所(公式HP)のセミナーでも勉強させてもらいます。最近、実家に小屋を作ったんですよ。店には置くスペースが無いのでそこに製麺機を設置しようと思っています。全部、一からやりたいですね。そしてミシュランを獲りたいです、絶対に!負けたくないです、どこにも。」



<店舗情報>

■麺屋號tetu

滋賀県長浜市南呉服町5-24

店Facebook:https://www.facebook.com/kotetsu1110

 

(取材・文・写真 KRK 平成28年10月)