Vol.10:麺屋棣鄂

ウィング麺?サンダー麺!? 刺激的な名前の麺が話題になっている。一体どんな形状で何に使う麺なんだ? 更に驚いたのはこの麺を生み出しているのが昭和6年創業の老舗製麺所だということだ。ほんの数年前は京都や滋賀でチラホラと名前を聞く程度だったが、いまや東京や札幌の名店、そして山形の話題の新店にまで店内に棣鄂さんの袋がドーンと飾ってある。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのこのカリスマ製麺所の現場を牽引している男は今、何を思い、何を語ってくれるんだろうか?麺屋棣鄂「知見工場長」にKRK直撃インタビュー。


─今で何代目?

「昭和6年創業で、祖父の頃から今で3代目になります。当時、山梨県からお爺ちゃんがある事情があって京都へ移ってきました。そして京都で生活してると『東京で流行ってたラーメン(支那そば)が全然ないぞ。』って気付き、これは商売になるんじゃないか?ってことで製麺所を始めたと聞いています。最初は何も作り方が分からなくて見よう見まねでやっていて、その頃、うどん屋さんとかに支那そばの作り方を教え歩いて『ラーメンを売ってくれ』って言ってたようです。」

─会社名の由来?

「中国の故事に『棣鄂の情』ってのがあって、兄弟、仲間たちが仲良く集まるって意味があります。」

 

─ 継ぐことは意識してた?

「兄もそうだと思うけど、僕は全く継ぐ気がなかった。親戚も入ってたし。」

 

─ラーメンは食べていましたか?

「僕はラーメンを食べることにもあんまり関心が無かったです。ラーメンを初めてちゃんと食べたのは高校の頃、友達に誘われたのが初めてかな?京都にずっと住んでいたのに、新福菜館や第一旭とか、高校3年の頃に初めて食べましたね。」

─ 自分の仕事?

「自分で仕事をしたい。何かをしたいって考えて見つけたのが放送作家という仕事でした。人を笑わせるのが好きだったので、お笑いの番組を考える仕事がしたいって思っていました。1年間、専門学校へ行き、それからある放送作家の先生に弟子入りさせて頂き事務所へ入りました。最初に憧れを持っていたのがダウンタウンさん。一緒にお仕事させてもらってたのが、ぜんじろうさん、そしてたかじんさん。2年ほどさせてもらっていたが、結局、泣かず飛ばずで。放送作家はいっぱいいますからね。」


─そして棣鄂に?

「数年前に兄貴が既に棣鄂で働き始めていまして、その兄貴からある日、急に電話があり『会社が危ない。従業員に給料が払えない』って(苦笑)。僕は親に専門学校まで行かせてもらっていて、金持ちでないにしろ貧乏でないって思ってたので、そんな電話が来てとてもビックリしましたね。それで実情を聞いてみると、給料が払えない。一番ショッキングだったのが親父が見たこと無い財布を出してきて、その中に伊藤博文の時の千円札や聖徳太子の時の1万円札とかの新札が入っていて、それまでも使おうとしていたことですね。コレクションとして大事に取っておいたお札ですから。その時はもう『いよいよだな』って凄く不安になりました。それで僕も手伝うことを決心しました。2002年頃ですね。」

 

その頃の京都のラーメン事情は?

「その頃は高安さん、いいちよさん、あかつきさんが流行っていて、ちょっと落ち着いてきた頃ですね。」

棣鄂に入って?

「麺の作り方を親父しか知らないので、まずは作り方を教わりました。一生懸命でしたね。その頃はうどん、そば、焼きそば、生中華麺2種類でした。」

 

─ 作り方を教わってから?

「とりあえず『売れるためにどうしたらいいか?』をいろいろ考えていました。そんなもがき苦しんでいる時に現われたのがしゃかりきさんでした。千本丸太町。ウチの昔の工場のすぐ近くにラーメン屋さんがオープンしまして、それがしゃかりきさんでした。その頃は新店に営業に行くたびに、大手のA社さんが既に入っていてなかなか新規の契約を取るのが難しかった。それでしゃかりきさんに営業に行って名刺渡したら、その時に梶 店主(しゃかりき)から『じゃあ、ちょうどいいわ。つけ麺の麺を探してるんや。A社さんに言ったらつけ麺なんて京都で流行らへんって言われた。麺屋さんならつけ麺の麺を考えてよ!』って言って頂きました。僕には流行るとか、流行らないとか選択肢は無く、『もうやるしかない』って気持ちでしたね。そしていろんなことをして、なんとかつけ麺の麺を作り上げました。つけ麺を知るために関東にも行きましたね。当時、雑誌『dancyu』で六厘舎さんや開花楼さんの麺の特集があって、見たこと無い太い麺にショックを受けたのをよく憶えています。」

 

─ それからどう動いていく?

「しゃかりきさんとのやりとり、あとはフリークさんのネット上での感想も参考にしていました。辛口なコメントを頂いたりね(笑)。つけ麺の麺を使ってもらい始めて、『じゃあ、ラーメンの麺も』って話をしたら、『ラーメンはA社の麺を使っておきたい』ってこと。なぜならA社さんは京都市内のいろんなお店に降ろしているから情報が豊富と言われてました。その時『あっ、美味しい麺を作ってるだけじゃ駄目なんだ』って思いました。それで僕は『業界の井上公造になろう!』と決心しました。ちゃんと他のラーメン屋さん、業界全体の知識を持っておこうってことです。それからは一生懸命、ラーメンを食べ歩きをしていましたね。」

─オーダー麺の始まり?

「当時は『オーダーしてもらって麺を作りたい』ってことじゃなく、『買ってくれるなら何でもやります』って感じでしていました。それから、あきひでさんにも使ってもらったり、しゃかりきさんも使い続けてくれてたけどまだまだでしたね。新店などの営業に行っても、ことごとく買ってもらえない日々が続いていました。例えば、老舗の大栄ラーメンさんなら、もう『大栄さんのスープにはこの麺』と常連さんの中では決まってしまっているんですよね。それが、もしウチの麺を使うことによって、多くの方に愛されているそのバランスが変わってしまっても駄目なんですよ。そういう理由で『売るところがないな』って京都ラーメンの業界を考えた時に頭を抱えて悩みましたね。『なんとか、なんとか』ってもがき苦しんでいた頃です。」

─どんなことに取り組んでいた?

「当時、関西一週間って雑誌に載ってた業界で有名な方たちとお知り合いになるようにとか考えていましたね。例えば、知り合いのラーメン屋さんに『某誌の取材が来る』って聞いたら、僕も現場に行ってそこで業界の有名な方と知り合いになるようにしたり。そうやって業界内での付き合いを拡げる努力をしていました。顔を憶えてもらうと、その付き合いから仕事をもらえるようになってきました。会社のみんなで一丸となって営業を頑張っていました。それから徐々にですがウチの知名度も上がってきました。悪く言われることも多かったですが、そういうのもお客様の意見として参考にさせてもらっていました。」

 

─その頃、大阪には?

「大阪へウチの麺が行くようになるのには時間がかかりましたね。大阪の一番最初は、厳密にいえばあす流さんです。ある時、きんせい中村さん(彩色ラーメンきんせい)から『麺を探してる人がいる』って紹介してもらいました。大阪の高槻にウチの麺が行くってだけで嬉しかったです。」

─関西以外は?

「いや、当時は全く考えてなかったです。東京や札幌の知り合いの方の紹介で、やまぐちさん(東京)、まるはさん(札幌)でウチの麺を使ってもらったりしていましたが、まずは『関西でしっかり商売をしたい』って思っていました。その頃は京都でもいろいろやってきて、『頑張ったら何でもできるんじゃないか?』って思うようになってきていました。」

 

─麺の研究は?

「暇でしたので、『こんなんが欲しい』、『あんな粒々の麺が出た』とか聞いたら、全部作っていましたね。3ヶ月に1回は東京に行って、麺の研究も続けていました。知り合いの方に紹介してもらって、関東のフリークさんともお付き合いをさせてもらうようになっていきました。」

─自信がついてきたのは?

「最初は棣鄂って名前だけが先行してて、『あそこ凄いな』、『活躍してるな』って思われていたと思いますが、実際は『あ~、よかった。なんとか腰を据えて商売が出来るわ』って思ったのは、2010~2011年頃でしたね。それまでは暇な時期もあったし、ドーンと売り上げが落ち込んだ時期もありました。」

 

─そして今の場所へ移転?

「2011年です。仕事が増えてきて。前は狭いオンボロの古民家みたいな所でしてましたから。 」



─オリジナル麺の開発?

「一番最初、両端が薄くて、真ん中が分厚い麺が作りたいって。イタリアンのパスタからヒントを得た麺なんですが何度か試作しましたがなかなかイメージに合ったのができなくて失敗ばかりでしたね。その経験を踏まえて機械屋さんといろいろ話し合って、イメージを絵を描いたら今のウィング麺の形になっていました。」

 

─ウィング麺の誕生。

「ウィング麺は大々的に売る気はなかった。僕の楽しみの中から生まれた麺で、1ヶ月とか食べ続けれるような麺でもないですから。『棣鄂で麺を買ってたら、こんな面白いおもちゃも持てるよ』って+αの意味合いが強いんです(笑)。『ウィング麺で名を馳せよう』とかは考えていませんでしたよ。」

─そしてサンダー麺の開発?

「山形のケンちゃんラーメンの麺との出会いからですね。ある時、札幌のまるは健松丸の長谷川さんが山形でケンちゃんラーメンを食べてきて、ウチに『あんな麺が欲しいんですよ』って言ってきたんです。ネットで調べてみたら『なんじゃこれ?』って驚きましたね。東北の人は凄くね、小麦、麺料理を上手くつかっていますよね。毎日食べるような味にして、量もですし、自由度がとても高いと感じます。業界的には『東京がトレンドだ』って言われる事が多いですが、実は東北のを巧く焼き直しして出してるってのが多いように思います。それで一時、東北の麺について、ラーメンの特集とかを読み漁ったりしてましたね。」



─オーダーへの対応。

「極稀にピタって相手側の希望に合わせれることもありますが、そんなに上手くはいかないですよ、やっぱり。言葉がね。例えば注文を受ける時にお客様から『モチッとして』って言われても、僕のモチっとお客さんのモチッが違ったりする。僕の思う真空のカスっとした麺を出したら、『これこれ~!』って言ってくれることがあり、『あ~、こっちだったんだ』って(笑)。そういう言葉だけで細かい刷り合わせするが凄く大変ですね。遠いと電話になりますから、更に難しくなりますね。」

 

─最近は秋田や山形へも?

琴のさん(山形県)とか麺を作る時間はなかなか作れないようで、『製麺所で買うなら棣鄂さんで』って言ってくれています。東北の麺とかもちろん向こうに合わせて作っているんですが、山形の地元の人からしたら『食べたことない麺』って言われますね(笑)。概ね気に入って頂いてるようなので良かったです。やっぱり地元のブロガーさんとかが『美味しい』とか書いてくれてると嬉しいですよ。PCで地元の方のブログとかチェックしてて、にんまりしてます(笑)。」


─まだまだ修行?

「毎日、ちょこっとでも作ったり、見たりとか勉強は続けています。難しいのは、やっぱり安定ですね。今でも。例えば商売ですからやりたくないことでもすることもあります。お客様から『もうちょっと加水を下げて』って注文受けて、『いや、これは下げても駄目だけどな』って思っても、でも注文ですから反論はできないですからね。」

 

─お客さまとのやり取りから学ぶ。

「こちらから提案はさせてもらったりはしますが、ウチは材料屋ですから。そういうお客様とのやり取りの中から気づく事も多い。例えば、よく言われるのが『塩ラーメンに合う麺をください』って注文。『それは人それぞれですが』って言うと、やっぱり突き放すような言葉になるので。『清湯にはこういう麺』とか、そういうセオリーって、僕は自由でいいんじゃないかな?って思うんですよ。『何番の麺ください』とかもあるんですけど、コチラが『何番は無いんですけど、こういうのならあります』って言うと、『じゃあ、いいです』って。ウチとしては『そこで決めないで欲しいな~』とかありますね。」

─ 自家製麺ブームへは?

「作りたい人は作りたいし、『作りたくない』って人は作らないですから。製麺所のメリット、自家製麺のメリット、それぞれあるので、製麺所としての焦りとかは全くないです。」

 

─製麺の同志?

「誰にでもってのは無いですが、お付き合いのある店主さんには僕の持ってる知識を教えたり情報交換とかします。僕が商売感覚が鈍いのかもしれないけど、同志だと思って接しています。同じことをしてるので話してて楽しいし、同じことで苦労してると思うし。」


─最近、面白い麺との出会いは?

「自分が作ってる麺はよく分かってるので食べてて楽しくないんです。刺激を受けるのは他の人が作ってる麺ですね。最近では岡山のだてそばさん!老舗で有名だって聞いたので行ってきたんですが、空気が思いっきり入ってる『エアーin』みたいな麺で、『これどうやって作ってるんだろう?』って凄く考えましたね。低加水でセオリーには合ってるんだけど、凄いスコスコで『え?』って思いましたね。麺の情報とかは自分でも集めてますね。麺の写真見たら、だいたい分かりますしね。ネットで日本各地を調べています。」

 

─場所は京都に拘る?

「まだ未知数ですね。東京、九州、はたまた海外に、とかいろいろ考えていますが、決め兼ねています。」

 

─今後?

「関西で揉み麺をしっかり広めたい。まだやっぱり縮れ麺と一緒にされてることが多いので、もっと分かりやすい揉み麺をご披露したいって思ってる。そして、これまでいろいろしてきたので、この辺でしっかり足場を固めていきたいですね。究極は『売れてなんぼ』って思ってます。例えば、『あそこの湯で時間どう思います?』って聞かれたら、僕は『あの人がいいと思ってるならいいと思います』って答えています。僕は麺をハサミでいっぱい切り刻まれてスプーンで喰われていても怒らないです。買って頂けるだけでありがたいんです。」

 

─大切なこと?

「1つ言えることは『中華麺の職人であり続けたい』って思っています。」



<会社情報>

麺屋棣鄂

京都府京都市南区上鳥羽山ノ本町24

公式HP:http://www.teigaku.com/

知見工場長Twitter:https://twitter.com/teigaku_kojocho

 

(取材・文・写真 KRK 平成27年9月)