Vol.21:京都千丸しゃかりき


 KYOTO。多くの世界遺産があり、祇園もある歴史ある街だ。世界各国からの観光客にも大人気の京都なので、もちろん多くの飲食店が集まっていて、そして個性派ラーメン店も集まっている。ラーメン文化が長くある京都には老舗から新店まで選択肢は多く、一乗寺のような超ラーメン激戦区も存在する。老舗~新店の分岐点として、現代の京都ラーメンシーンに最も影響を与えたと語られる店がある。"京都千丸しゃかりき"だ。

 "しゃかりき"がオープンした後の京都ラーメンシーンは明らかに変化した。変化というよりは"進歩"という言葉が合うだろう。ピリピリした緊張感の中から生まれる多くの名作にファンは歓喜し、"しゃかりき"から刺激を受けたラーメン店も多く誕生していくことになる。今回、梶店主と話す機会を頂いた。梶店主のインタビューは他では読んだことが無いし、本人も「インタビュー受けるのは珍しい」と言っている。何から始まり、そして今の京都ラーメンシーンをどう見てるんだろう。"京都千丸しゃかりき"梶店主にKRK直撃インタビュー!


-出身は?

「京都府舞鶴市です。31歳頃までサラリーマンをしていたんですが、30歳、勤続10年、2000年、ってのが重なった時にいろんな思いの中、脱サラを決意しました。」

 

-脱サラしてから? 

「『ラーメン屋をしよう!』と決めて、東京へ行きました。当時、2000年頃ですが、全国的には東京のラーメンだけがメディアで取り上げられていて、関西の情報は少なかったんですよね。とりあえず東京へ行き、友達の家に居候させてもらいました。それから初めてラーメン雑誌を買って、気になった店をいろいろ食べ歩いてみました。それでいろんな店で食べてる内に、一軒、『ここは凄いな!』って思った店があったんです。」

 

-どう凄かったんですか?

「麺を上げてる姿にオーラみたいなのがあって、単純に『かっこいいな!』って。『やるならこんな店でやりたいな』と思って、そこに応募しました。その店が立川市の鏡花でした。もちろんラーメンも素人だった僕にでも『美味いのは間違いない』って味でした。何が美味しいのか分からないくらい難しい感じがして、店の雰囲気もとても良かったんです。師匠の麺を上げてる姿から『マジでやってます』って真剣さがとても伝わってきました。」

-応募して?

「飲食知識も無かったし、年齢も31歳になる頃だったので、応募したら『明日までに原稿用紙5枚、ラーメンについて書いて、明日の15時半までに持ってこい』と言われました。とにかく自分の経緯、自分がこの店が気に入った理由などを書いたら、『雑用で使ってやる』って感じで雇ってくれました。当時、お弟子さんが一人いて、あとはバイトでしたね。とりあえず何もできないし、やれと言われても何もできないから、できることを必死でやっていました。」

 

-鏡花で学んだこととは?

「よくね、仕事終わってからご飯に連れて行ってもらっていて、そこで師匠との会話の中でラーメンに対する考え方、よそのラーメンを食べた感想の中での会話。そういう中でいろいろ学ばせてもらいました。求める味ってのは師匠と僕では違うし、求められるものも東京と京都では違うと思うから、その中でラーメンへの考え方を学んでいけたのが一番為になりましたね。僕の中では『師匠から何を学びました?』と聞かれたら、そういうところ。自分の中でのブレないモノの考え方ってのはそこなんで。」

 

-それから自分の店をするんですか?

「しばらくして鏡花を離れて、地元(舞鶴市)に戻りラーメン屋を始めたんですが、全くうまいこといかず。そして再び東京へ戻り、師匠に無理を言ってまた面倒みてもらうことに。それからしばらく働かせてもらって、再び鏡花を離れて京都へ戻りました。2回目は京都市内で自分の店を始めました。それがココ。しゃかりきです。師匠はとても厳しい方だったので、鏡花から正式に独立してるのは僕ともう一人、中村橋にある似星って所のポールだけです。」


京都千丸しゃかりき(2004年5月15日オープン)


-師匠には内緒で?

 「鏡花を離れて京都でラーメン屋を始めたのをずっと師匠には隠してたんですよ。当時はSNSもあんまり無かったし、関西の情報はほとんどなかったので。僕もお客さんに『どこで修行してたの?』って聞かれても、言ってなかったんです。『あちらの店に迷惑かけてもいけないし』って言いながら。」

 

-なぜ今回は京都市内に?

「舞鶴市はラーメンを食べる文化が無い。個人店ってのは無くて、麺屋とか肉屋とか業者も無かった。で、やるからには評価対象されるものが無ければ、じっくり殺されてるような。商売人としては今日で駄目って判断がつかない。良いのか悪いのか分からない。それだったら、京都市内だったらラーメンの文化もあるし、美味いか不味いか、これからやっていけるのかが白黒はっきり出るし。やるならそういう何かを残してやめた方が気持ちいいって気持ちでした。お金なんて全然無かったから、看板も自分でつけてね。」

 

-場所は?

「最初は一乗寺でしたかったんですよ。当時、高安さんも後ろの筋だったし。天天有さん、珍遊さんくらいでしたね。まだロードサイドにはあまり出てなくて、個人店でも老舗があった程度です。あきひでさんもまだでしたから。一乗寺でいろいろ探したんですが全く無くて、東龍さんの近くの不動産屋に入ったら、偶然に今の場所を紹介してもらったんです。一階がガレージみたいになっていて、家賃も上下でいい値段でしたね。上で寝泊まりもできるし、『ここでやってみよう』と決心しました。それが2004年5月です。」



-どんなラーメンで?

「魚介は使いたい。動物系は太いってよりは、やや粘度がある感じでしたいなとか。鶏ガラなら"もみじ"を使うって感じでした。『まとわりつくような粘度が欲しいな』って。いろんなラーメン本も読んでましたね。本を読んでいろんな店を食べ歩いて情報収集もしていました。麺は中金さんの低加水のストレート。」

 

-オープンして?

「SNSもあまり無い時代だったので、あまり綺麗なオープンじゃなかったです。でも何の情報で見たのか分からないけど、けっこうお客さんが来てくれました。最初の月は『生活をやっていけるくらいのお金になるのかな~』と思ったんですけど、それからあっという間に地下に入りましたね。売り上げが全然上がらない日々が続いて、ある日、祇園祭りの時でしたね。雨降りの時、とても蒸し暑い日に最低記録が出たんです。朝から夜中の12時半までして、たった20杯くらい。その時は『もう辞めよう』と真剣に思いました。でもそのタイミングで雑誌の取材が入ったんですよね。何の雑誌か忘れましたが、『その発売日まで頑張ってみよう』って。」

- 雑誌の効果は?

「雑誌が発売になってもそれほど売り上げは上がらなかったんですけど、すぐに次の取材が入って。ずっと赤字だったんですが、雑誌のこともあり辞めずに我慢が続いたって感じでした。いつ辞めるか分からないという気持ちがあったし、僅かながらも来てくれるお客さんもいたから、そういうお客さんのために『自分ができるものって何だろう?』と考えていました。ちょうどその頃に近所にあった棣鄂さんが営業に来てくれたんですよね。それでメインの麺は変えれないけど、新しい麺を打つってことに。」

 

- 棣鄂さんとの最初のラーメンは?

「最初は和風のラーメンでした。当時は限定とかしてる店なんて無かった時代でしたから、その限定ラーメンに雑誌の取材が来てね。それで棣鄂さんと今後もそういうことをやっていこうってことになりました。そして2発目くらいが"つけ麺"だったと思う。」

-最初のつけ麺は?

 「豚骨と和出汁に、牛スジをトロトロに炊いてつけ汁に入れて麺を浸けて食べるって感じでしたね。ただ、麺はまだつけ麺になってなかったと思います。まだそこまで仕上がって無かった。そして冷たい麺への抵抗がお客さんには凄くあった。それで次に味噌ラーメンと味噌つけ麺をしたんですよね。その味噌つけ麺くらいからつけ麺らしくなってきました。ただ、オーダーは全く出なかったです(苦笑)。物珍しいモノが好きだったマニアックなお客さんばかりでしたね(笑)。」

 

-それでも続けたのは? 

 「常連になってくれるお客さんに対して、『いろんなラーメンがある』ってことを知って欲しいと思っていました。棣鄂さんによく言ってたのは、『やるからには出来上がるまでしよう』って。僕も一生懸命作り上げていったし。これから太い麺やいろんな形状の麺が出来てくるはずだから、そういうものにもチャレンジしたかった。手応えは全く無かった。『これでやっていけるんじゃないか?』って手応えが本当に全然無かったんですよね。意地だけで続けていましたね。」

-いろいろ試す?

「とにかく暇だったので、麺の熟成の進行を試すために2階で麺を並べて、毎日、試していましたね。『何が違うんだろう?』って必死でいろいろ試していました。同じ小麦ってことで、パンを車の中に1か月くらい置いておいて、『どういう腐り方になるのか?』とかも見ていました。ほとんど捨てることになるんですが、その熟成の進み方とか必死で研究していました。色の変化、点々が出てきたり、熟成が進んだ麺で奥歯に残る堅さとか。。3~4ヶ月間、ずっとしていました。」


-店舗展開?

「しゃかりきが4年くらいである程度商売になってきた頃、京産大で学食をプロデュースする仕事をしてる知り合いがいて、「まずかろう、安かろう、身体に悪かろう」じゃなくて、『ちょっと美味しいもの。食の安全ってのに切り替えていこう』って。それで「学食のコンペがあるので応募してみないか?」って話に。半分『どうしよう?』と迷いながらコンペに応募したら、勝ってしまって。でも凄い予算がかかるなって困ってたら、学校側が出すと言ってくれたんです。それでなんとかスタートできました。それがらーめん壱馬力です。

 僕らは路面店をしてて『学生さんにがっつり食べてもらおう』ってことで商品を考えてるので、やっぱり大学でやるってことは普段してることの集約になるのでやってみたいって気持ちでしたね。人出は全くいなかったんですけどね。オープンの日は多くのラーメン店の店主さんが手伝いに来てくれたんです。スケールが大きいから1000食くらい作れる厨房にしたので、備品の管理とか大変で3回くらい倒れそうになりました(笑)。オープン当初は売り上げはとても良かったんですが、しばらくしてガクンと落ちて、それから数年経ってオープン時に食べてくれた学生さん達が4回生になる頃から売り上げがガーンと上がり始めましたね。」

-そして3号店で一乗寺へ?

「『一乗寺に一軒出したい!』とずっと思ってたんですよ。大学で大きな店をしてるので、コンパクトな店をしたいって。デザイナーさんとコンセプトを決める時に、しゃかりきを継承する感じじゃなくて、もっと敷居が低くて入りやすい店って。安くで食べれて「また来るわ」という感じの店をしたかったんです。」

 

-つけ麺がメインの店?

「麺を楽しんで欲しい。麺を食べてもらおうってことで200g、300g、400gにして、麺を頬張ってもらうってのをしたかったんです。 」



-お弟子さんについて

「二人だけですね。宮下(現・Menkouともや店主)はオープンからいます。オープンした時の最初のバイトが宮下でしたね。宮下は調理師学校を出てたので最初はラーメン屋を馬鹿にした感じで来てたんですが、ラーメンの面白さ、僕が師匠から学んだように宮下も学んでいって。宮下は三重県の出身。ラーメン文化が無い。それでここでラーメンの面白さに惹かれて、結局、『ラーメンの道に進みたい』ってなりました。それで東京の師匠の所(鏡花)に外弟子に1年間出して、戻ってきてから"しゃかりき"の店長、それから"壱馬力"の店長させて、そして独立ってことになりました。最初は京都でって話もあったけど、三重に実家もあることだし、『できるなら両親の近くでやれ、ええかっこしろ』って。和食の職人になるって出てきて、ラーメン屋になるって。小さい店でも頑張ってるのを親に見せてやれって言ったんです。」

 

- 袖岡さん(現:らぁ麺とうひち店主)は?

「脱サラで入ってきて、来た頃が33歳くらいだったかな。『ラーメン好きで修行したい』ってことだった。最初から独立希望だったので、『最低3年くらいは修行するなら』ってことに。独立の時はいろいろ店の場所を探してたけどあまりいい物件のが無くて。今の物件は僕がウチの4号店で狙ってた所なんです。で、彼に『あそこどうだ?』と紹介してやって、決まりました。それがらぁ麺とうひちです。あの場所は多くの学生が住んでいて、周辺に競合店が少なくて、すごくいい物件だった。僕はあの辺りに昔住んでたからよく知っていた(笑)。『じっくりやるならここだ』って思っていました。繁華街でもないけど、一旦家に帰ってから『ラーメン食べに行こうか』ってのには最高の場所です。」

 

-今後は? 

「店舗展開は増えていく可能性もあるけど、やりたくない所ではしない。相思相愛になる物件があればですね。最終的には何も考えなくて、自分の今までのラーメン観、師匠から学んでから今に至る全てが出せる店を一軒して、1年で潰して引退しようかなって。それが夢です。京都でしか考えていません。」



<店舗情報>

京都千丸しゃかりき

京都府京都市中京区聚楽廻東町3-9

公式HP:http://syakariki.jp/

公式Twitter:https://twitter.com/syakariki_kyoto

 

(取材・文・写真 KRK 平成28年1月)