Vol. 57:中華そば 一番星

平安神宮の北東にある路地を入ると、一軒のラーメン屋がある。屋号は「中華そば 一番星」。創業1975年の老舗ラーメン店だ。私自身、京都の老舗ラーメン店はほぼ食べていると思っていたが、恥ずかしいことにこの店の存在を知ったのはほんの数ヶ月前になる。ある取材を通して知ったんだが、「屋台時代には京都を代表するあの名店と競い合っていた!」などワクワクする話ばかり。老舗ラーメン店というよりはハンバーグでも出て来そうな外観だが、しかし駐車場から店に向かって行くとピン!と来る。本気の豚骨臭が店の周辺を漂っているからだ。今回、昼休みに少し話せる時間を作って頂いた。長くラーメン文化が根付いている京都ラーメンシーンを、私が生まれる前から見守ってきた店主にいろいろ聞いてみようと思う。「中華そば 一番星」森川店主にKRK直撃インタビュー! 


- 出身は?

「元々は石川県で、奥能登の方です。冬場は雪が凄かったですよ。僕が子供の頃、昭和30年代ですね。」

 

- 京都へは?

「昭和37年ですね。定時制高校があるということで京都へ出てくることに決めました。京都で就職して、夜は高校へ通いました。仕事は建築材料の卸屋さん。材木屋さんみたいな会社でしたね。」

 

- ラーメン業界へは?

「建築関係、繊維関係、手芸関係とか若かったからフラフラしてまして、23歳の時、万博の頃ですね。2年間タクシーの運転手をしていまして、その時にラーメンの味を憶えました。夜中タクシーを運転していて、当時はファーストフードとか深夜に食べる所が無かったんです。それで屋台ですね。夜泣きラーメンをよく食べていました。それで常連でよく食べに行ってた屋台のおじさんと仲良くなりまして、『僕も客商売をやりたいな』って話したら、おじさんが『教えてあげるよ』って言ってくれました。それからが始まりでしたね。」

 

- 当時、屋台は多かったんですか?

「今まではコーヒーとかラーメンとかあんまり味を知らなかったんですが、タクシー乗ってる間にそういうことを憶えました。あちこち食べ歩いていましたから。あの当時はね、京都は『各交差点ごとに屋台がある』ってくらい多かったんです。京都市内です。学生の街でしたからね。同志社大学、立命館大学、京大。左京区、中京区、河原町通り周辺、屋台だらけってほどありました。僕が教えてもらったのが河原町周辺でやってた方でした。」

 

- 屋台で修行を始めて? 

「タクシーは夜勤でしたので夜1~2時頃まで仕事していました。それが終わってから、屋台のおっちゃんとこに行って無償で手伝ってって日々でした。おっちゃんは『見よう見まねで覚えなさい』って。そんな感じなんですよ。昔の人はそういう人が多かったんです。なかなか作らせてもらえなくてね~。自分が店終わって食べる時に、やっと自分の食べるラーメンを自分で作らせてもらうって感じでしたね。」

 

- どんなラーメンだったんですか?

「鶏がらです。それと豚骨ですね。」

 

- その屋台での修行期間は?

「食べに通ってたのが1年間くらいで、『屋台をやろうかな』って決めてからは3ヶ月間ほど教えてもらいました。『タクシー運転手はいつまでもできない』って気持ちがありましたから。3か月間、夜勤した後に屋台の手伝いして、その間にやり方を教えてもらって。そして僕の休みの時は、屋台のおっちゃんがちょうど仕込み、仕入れをする時間帯に彼の家に行って、一緒にすることで教わりました。」


屋台「一番星」をしていた場所(昭和47年5月~)


- そして、自分の屋台ですね。

「あの当時、古い屋台も無いし、『せっかくやるなら!』ってことで新しい屋台、檜造りの屋台を注文しました。それで大阪の道具屋筋に行って材料を揃えました。昭和47年5月に屋台をオープンしました。」

 

- 屋台間での縄張りとかはあったんですか?

「それを友達とかみんな心配しましてね~。でも教わったおじちゃんが長年屋台してた人だったので、『ややこしい縄張りの近くでやらないように』っていい場所を教えてくれたんです。ここ(現在の一番星の場所)から50mほどの所、岡崎のそばの信号があるんです。『そこ(その交差点)なら、ややこしい人も関係なくできる』って。凄くいい人でしたね。」

 

- 屋台を始めて?

「オープンが21時で、翌3時までしていました。この周辺は学生の下宿が多かったんですよ。だからお客さんが深夜でもたくさん来てくれて、毎晩賑わっていましたよ。一人でやっていたので丼を約50~60用意して廻していました。使ったのを後でまとめて洗うってことにしてたので回転も良かったし、お客さんも『綺麗な屋台やな』ってことで大勢来てくれていました。」

 

- 当時、店舗で営業していたラーメン屋もあったんですか?

「その頃、店舗でしてたのは塩小路の第一旭さん(公式HP)、新福菜館さん(公式HP)。他には銀閣寺のますたにさん、一乗寺の珍遊さん(公式HP)です。僕は珍遊さんのラーメンが好きでね~。仕込みする時とか、仕事する前は必ず珍遊さんで食べていましたね。珍遊さんもますたにさんも元々は屋台だったんですけど、僕が屋台する時には店舗構えてやっていました。」

 

- 当時の屋台ラーメンの値段?

「たぶん100~120円くらいだったかな。安いってこともなく、だいたい相場でした。タクシーの初乗りと、屋台のラーメン一杯の値段がだいたい一緒でしたね。」


中華そば 一番星(昭和50年6月22日オープン)


- 最初から店舗を考えていたんですか?

「頭の中では『店舗を持ちたいな』って気持ちはあったけど、『難しいだろうな』って思っていました。この店舗は借りてる店舗なんですけど、大家さんがその並びに住んでいて、銭湯行くときにウチの屋台をよく通っていたんです。当時、ここ(現在の店舗)はステーキハウスでして、そこが閉めるって時に大家さんが僕に『してみないか?』って声をかけてくれたんです。それで決めたんですよ。いいタイミングでしたね。昭和50年6月22日にオープンしました。」

 

- 屋号の由来?

「屋台をしていた時から『一番星』として営業していました。一番星が出る頃に準備に入って仕込みをするってことです。それと『子供さんが憶えやすいんじゃないかな?』って軽い気持ちで。」

 

- 当時、他の屋台も屋号とかあったんですか?

「他の屋台は屋号は無かったかと思います。」



- 内装は当時のまま?

「調理場だけ変えて、内装は当時のそのままです。もちろんテーブルや椅子は変えましたが、壁とかはそのままです。当時、お客さんから『高い店の感じで入りにくいな』ってよく言われました(笑)。」

 

- オープンして順調でしたか?

「すぐ近くで屋台してましたから、常連さんがそのまま来てくれました。新聞広告もちょっと出しました。」

 

- 当時の営業時間は?

「昼12時から夜12時まで通し営業でやっていました。まだ20代で元気でしたから。」



- 当時のラーメンは?

「基本的には全然変わっていないです。ただ、鶏ガラは使う場所によって濃厚な味がでる場合と、あっさりしたのが出る場合がある。基本的に使ってる量は変わっていない。ただ、こってりの場合はガラでも頭とかモミジとかいろんなガラを一緒にして入れるとこってりした味が出る。最初はずっとそれでしてたんですが、13年くらい経った頃かな?たまたま業者が僕が使ってるガラを切らしていまして、『胴ガラしかないけどいい?』って。仕方ないので胴ガラだけで使う量は一緒でしたらちょっとあっさりめになったんです。するとお客さんが『あっ、これいいやん!』って言って。家族客が来たら、ご主人は『前のこってりが良かった』って言うけど、奥さんや子供さんは『臭いもマシになったし、あっさりして食べやすい』って賛否両論ありましてね。それで『これでいいかな?』って思って、胴ガラだけに変えてしまいました。」

 

- 大きな転換ですね。

「僕自身もそんなに特別拘ってるわけでなかったし、お客さんがこれでいいって言うなら、これでいいんちがうかって。その当時、僕が胴ガラを使うようになった頃にラーメンブームが来まして、『あまから手帖』や『テレビのグルメ番組』で紹介してもらったんです。それでラーメンランキングとかに出てしまい、味を元に戻すに戻せなくなってしまいました(笑)。」

 

- 違うメニューもあったんですか?

「メニューはずっと一緒です。値段が変わっただけです。」

 

- 棣鄂さんの麺はいつから?

「屋台の時は別の小さい製麺屋さんの麺を使っていたんです。そこが閉めることになって、それから棣鄂さん(公式HP)の麺を使うようになりました。何年ほどだろう?屋台の頃からだから、40年以上ですね。棣鄂さんは京都では古いところですからね。今の社長さんのお父さんの代からです。」

- お漬物が一緒に出てくるって珍しいですね?

「特に意味は無いんですが、ラーメンとごはんだけの店だから『ちょっと寂しいかな?』って思って。元々、僕は甘党でして、ぜんざいを食べに行ったら塩昆布が付いてきますよね。ああいう単純な発想です。九州に行くとラーメンに高菜が付いたりとか聞いてたので、『京都なら柴漬けがいいんじゃないか?』って。それで付けてみると、ラーメンのことを美味しいって言わないのに、「柴漬け美味しいやん」って言われることが(笑)。オープンからずっと付けているので、一番星って言ったら『あ~、あの柴漬けの店か?』って言われることもあります(笑)。もちろん、合う合わんもありますね。ラーメン好きな人は、『あんな酸味のある柴漬けをラーメンと一緒に食べたら』って文句言う人もいますよ。」


- 当時のラーメン店同士、横の繋がりはあったんですか?

「繋がりは全然無かったですね。でも新福菜館の方は『ラーメンはここ(一番星)でしか食べないんや』って言ってくれていて、今でもよく来てくださっています。」

 

- 店舗展開は考えなかったんですか?

「そういう頭はあまり無かったですね。自分の頭の中には『東西南北、4店舗くらいは』ってのはありましたが、気が小さいですから。それに、なかなか人任せはできない。自分で作らないと気が済まないって職人根性がありました。作り手が変われば、味が変わりますからね。基本的には僕が冒険できない、気が小さいってのが理由ですね。」

- 今年(2017年)で、何年目ですか?

「なんとか今年で42年目になります。」

 

- 跡取りについて?

「こういう仕事ってのはある程度好きでないとできない。自分から進んでそういう気持ちにならないと、なかなかできる仕事じゃない。だから敢えて募集とかはしていません。」

 

- 森川店主の大事にしてること?

「自分のスープを守ること。お客さんの反応というか好み。飲食って好き嫌いがあるから、これが一番とか、これが絶対とか言いきれない。お客さんの反応を大事にする。僕は決めたことを守ることが一番大事。お客さんの好みに合わすってことを一番気を付けてること。それが命だと思っています。ラーメン食べる方は凄く味、食べ方に拘りがある方が多いので、なるべくその人に合わすようにしています。その姿勢は崩さないようにしています。食べ方ってのは千差万別。いろんなラーメンがある中で、お客さんはウチを選んで来て頂いてる。自分の作ってるラーメンの中で、お客さんが喜んでくれる要望に応えれるようにしている。体力の続く限り頑張ります。」



<店舗情報>

■中華そば 一番星

住所:京都府京都市左京区岡崎北御所町28-4

 

(取材・文・写真 KRK 平成29年7月)