Vol.101:ガチ麺道場


 2017年5月、所用で訪れていた静岡県からの帰路、気になっていたお店に寄ってみた。屋号は"ガチ麺道場"。恥ずかしながら、当時、このお店の情報はほぼゼロだったので、滅多に出会わないレベルの極上の一杯に驚いた!

 あれから1年と数か月が経ち、このお店が"究極のラーメン東海版2018 総合GP"を受賞することになった。発売前にその噂を聞いたので、取材を申し込んでOKを頂いた。取材のタイミングとしては最高の時期だと思う。"ガチ麺道場"上野店主にKRK直撃インタビュー!


- 出身は?

「3歳の頃にこっちに来たので、ほぼ豊川市ですね。」

 

- 料理の世界に入ったきっかけは?

「父親が魚屋を経営していたんですが、寿司屋もやりたくなって、片手間でこの場所でお寿司屋さんを始めたんですよ。その時に僕は『魚屋は継ぎたくないけど、お寿司屋ならかっこいいから継いでもいいかな』って思っていましたね(笑)。中学を卒業した頃にお寿司屋さんを始めて、僕もお手伝いをしていました。でも高校を卒業する頃には寿司屋を継ぐのが凄く嫌だったので、いろんな所を転々としていました。」

 

- 嫌になった理由は何だったんですか?

「学生の三年間、手伝いたいから手伝っていたのに、いつの間にか手伝わなければいけないみたいになってしまっていて、その時に商売の大変さってのを物凄く肌で実感しました。ちょうど遊びたい時期だったんですよね。」

 

- その後、家に戻ることになったのは?

「僕は早くに結婚して子供ができたんです。周りも家業をやっている友達がけっこういて、ある時期になるとみんなが『そろそろちゃんとしないといけないから、家に入るわ!』と次々と家に戻っていったので、僕も『じゃあ、俺も家を継ごうかな』と思ったんです(笑)。でも家に入って半年ほどで、親父から『出ていけ!』と怒鳴られてしまいました。修業も何もしてないし、バイト感覚で入っていましたからね。

 それから家を離れて、和食のお店で2年くらい働いていました。いずれ家に戻りたいと思っていたので、魚とか基本の調理法を覚えて、調理師免許を取って、それを手土産に頭を下げて家に戻ろうと考えていました。23歳の頃に家に戻りました。」


- 家に戻って、再スタートですね。

「もう厳しかったですね。親父が『俺が黒と言ったら黒、分かったか?』という感じでしたね。それから30歳まで女房と一緒に親父に尽くして、頑張りました。それで30歳になった時に、親父が『この店、お前にやるわ』って、前もって何も言わずに突然言ってきたんです。当時、親父は60歳くらいでした。全く予想していなかったので、本当に驚きましたね。」

 

- 理由は聞いたんですか?

「だいぶ後になってから聞いたんですが、その数年前、親父が厨房で厚焼き玉子を焼いている時、ちょっとボーっとしていて引火して火事を起こしてしまったことがあったんです。凄い火傷をして、寿司は握れないし玉子も焼けない。その時にはもう魚屋は売ってしまっていたので、寿司屋を休むに休めないし困っていたんです。その時に僕が『俺がやるわ』と言ったんです。僕も必死だったので、それまで厚焼き玉子を焼けなかったのに、急に焼けたんですよ。それが28歳の頃でしたね。親父はそれからの僕を見てくれていたようで、『いつまでも俺がしていても仕方ない』と思ったそうです。それで30歳になった時に譲ってくれたみたいなんです。それを聞いた時は凄く嬉しかったですね~。」



- 寿司屋を継いでから、どうでしたか?

「ちょうどバブルが弾ける数年前に僕が継いだんですよ。借金も無かったし、急に大金を手にするようになりました。周りの仲間たちも事業展開をしたりしていたので、僕も片手間に居酒屋、焼き鳥屋を始めたんですが、もう失敗の連続でしたね。その時はもう"どん底"でした。それで困っていた頃、スナックをやっていた友達が片手間にラーメンをして凄く儲けていたんです。それでラーメンへの興味が出てきたんです。」

 

- ラーメンに興味をもって?

「自分で試作したり、仲間たちといろんな店に食べに行くようになりました。いろいろ食べている時、丸和さんのつけ麺を食べて感動したんですよ。僕はうどん、そばで必ず"ざる派"、麺を食べたいというのがあるんです。丸和さんのつけ麺が凄い新鮮で、うどんでもそばでも無い、この麺の風味は何なんだろう?ってずっと考えていましたね。

 僕の友達が興味を持ったのは、"麺屋はなび"の塩そば。『丸鶏を何十羽も使って炊いています!』と紹介されていたので、友達が僕に『お前は料理人だから、こんだけ丸鶏入れたらこういうスープを作れるんか?』と言ってきたので、『一回やってみようか』と試作をしていましたね。」

 

- どんどんラーメンに嵌っていくんですね。

「それからもいろんなお店に食べに行き、嵌っていきましたね。それで自分の居酒屋"番屋横丁"にカウンターを作って、昼にラーメンランチを始めました。誰にも教えてもらわず、自分でガラとか丸鶏で出汁をとって、タレも試行錯誤をして作っていました。一番苦労したのが香油でしたね。背脂ってどうやって作るんだろう?とかも困っていました(笑)。僕の仲間の店は全部業務用でしていましたが、僕は最初から手造りに拘っていました。」


居酒屋"番屋横丁" 当時のランチメニュー(2010年)


- 居酒屋でのラーメンの評判は?

「醤油はけっこう評判よかったですね。何も宣伝せずにやったんですけど、口コミでけっこうお客さんが来てくれるようになっていました。それで借金もだいぶ減って、居酒屋も軌道に乗ってきたので、ラーメン屋をしようかなと考えていました。製麺機メーカー"大和製作所"の名古屋での講習会にも通っていました。麺というより、ラーメンの作り方の勉強でしたね。

 その時に大和製作所の藤井社長から『これからラーメン屋をするなら、まず無化調。麺は自分で打った方がいいけど、製麺機は高いぞ。あなたが20年以上してきた和食の考え方は、全部捨てないと駄目!」とアドバイスを頂きました。その意味が、後に浜松で開業した時にやっと分かりました。今までの僕の経験、料理法とか全く関係ないなと。」

 

- ラーメン屋開業に向けて動き出すんですね。

「そうする予定だったんですが、せっかく軌道に乗った居酒屋が火事でなくなってしまったんですよ。自分の中で頭が真っ白だし、借金もまだ残っているしどうやって生きていこうかとか。それで大和製作所の藤井社長に相談したら、『次のクラスに空きを作って入れてあげるから、すぐに来い!全て忘れて勉強しなさい』と言って頂きました。」


浜松市:ガチ麺道場(2011年9月11日オープン)

- 卒業後、ラーメン屋を開業するんですね。

「姉に資金面で助けてもらって、ラーメン屋をしようと決心しました。用意してもらったお金でやれる範囲の物件を探していて、浜松の物件を見つけました。名古屋か浜松と考えていて、探していたんです。ラーメン学校で藤井社長から『田舎で無化調でしても絶対に流行らない。それにあなたは地元を一回離れて、新規で生まれ変わった気持ちでするべき!』とアドバイスを頂いていましたから。」

 

- 浜松のお店の屋号は?

「その時から、ガチ麺道場です。以前に居酒屋でラーメンランチをしていた時、スタッフの大学生が賄いを食べながら『ガチで美味いですね。ガチで麺、美味いっすよ!』と連発していたんです(笑)。それで思いつきました。」

 

- 浜松のお店はどうでしたか?

「メインはベジポタつけ麺で、他に和風つけ麺って醤油の清湯つけ麺も出していました。浜松では、オープンして1~2カ月で砕け散りましたね(笑)。全くでしたね~。精神的にもガタガタになってしまいました。火事で居酒屋がなくなってしまった時は、『またどこかで再起できるだろう』と思っていましたが、でも浜松の最初の三カ月の時は本当に人生が嫌になりましたね。」

 

- 浜松を離れるきっかけは?

「徐々に1日60杯とか出るようになってきて、常連さんも増えてきた頃に『お店を買いたい』という人が現れました。それでお店を手放して、名古屋に行こうと決めました。家族には『名古屋で駄目なら東京に行って、それで無理ならもうラーメンをやめる。包丁だけ持って、山奥のホテルへ住み込みで働きに行くわ』と伝えていました。浜松では約2年ほどでしたね。」


名古屋市:麺工房 梵(2014年3月1日オープン)

- 名古屋でも"ガチ麺道場"で?

「名古屋では、知り合いの方と共同経営みたいな感じで始めました。知り合いが出資して好きなようにお店を作って、僕が製麺機や厨房機材を持ち込んで、好きなように商品を作るという感じでしたね。その方が"梵"という屋号でしたいと希望したので、屋号は"麺工房 梵"と名付けました。」

 

- 名古屋での評判は?

「最初は何も宣伝してなかったので、苦戦しましたね。1日30杯くらいで、浜松より悪かったです。その頃に息子が『父さん、Facebookというのがあるんだけど、やってみたら?』と勧めてくれたんですよ。Facebookを始めたと同時に、製麺講習会で丸和の大将堀さん(鉢ノ葦葉)に会ったんですよ。その時に丸和の大将が名刺を持って『梵の上野さんですか?』と挨拶してくれたんですよ。びっくりして、もう感動してしまいましたね。その後、すぐにお店にも食べに来てくれて、Facebookでも丸和の大将や堀さんと繋がりましたね。」

 

- 人気が出るきっかけは?

「その後くらいからですね。某ラーメン本で取り上げてもらったり、ブロガーさん達にも『麺が美味い』とか高評価をしてもらうようになって、お客さんも急に増えてきましたね。」

 

- なぜ名古屋を離れたんですか?

「雑誌に出れるようになるなんて思ってもいなかったし、自分の中では自分の今までしてきたことが間違っていなかったと思い、とにかく嬉しかったんですよね。それで、その時にドッと疲れが出てきたんです。その頃にオーナーさんと方向性の違いが出てきたので、僕は抜けさせてもらいますと伝えて、こっち(豊川市)へ戻ることに決めました。」


ガチ麺道場(2015年2月1日オープン)


- 場所は決めていたんですか?

「妻がこの場所でお店をしていたので、『ラーメン屋をしたいから、昼だけ間借りさせてもらえないか?』と頼んで、ラーメン屋を始めました。それからはまさかの展開で、多くのお客様に来てもらえるお店となり、今に至ります。」

 

-オープン時のメニューは?

「ベジポタが看板で、鶏の中華そばがサブメイン。つけ麺、ライト白湯の中華そばがサブ。いつか清湯をメインにしたいと考えていたので、小さく"鶏そば"もメニューに載せていましたね。」



- "もち大麦"について紹介をお願いします。

「浜松の時に某メーカーさんから紹介してもらって打ってみたら、凄い香りなんですよね。それから"もち大麦"についてもう10年以上研究しているんですが、凄く体にいいんです。だから宣伝もしているんですけど、国内で数か所でしか作っていないんです。扱いにくいし、高いのでなかなか他で使っているお店は増えないんですよね。」

 

- 上野店主が大事にしていることは?

「修業中から言われていたんですけど、僕ら食べ物を扱う商売というのは一歩間違えば人を殺してしまう。だから必ず自分で納得できるもの、例えば取引している野菜でも自分で吟味して、自分で食べて確認してから提供する。親方によく言われたのは、素材を無駄にしたらいけない。ここまで搾り取れ。どこまでこれが日持ちして、ちゃんと食べれるものなのかも吟味しろということ。かっこいい言い方をすると、安心と安全なもの。この2つは自分の中で肝に銘じてやっています。」



 <店舗情報>

■ガチ麺道場

住所:愛知県豊川市美園3-13-2

Twitter:https://twitter.com/gachisobadojo

オープン日2015年2月1日

 (取材・文・写真 KRK 平成30年9月23日)