Vol.184:らぁ麺 紫陽花


 今回取材するのは名古屋市の「らぁ麺 紫陽花」。2015年4月に彗星のように現れて、すぐに大行列が発生。今や「名古屋の至宝」とまで呼ばれているお店だ。

 時を遡って2013年。私が常連として通っている四日市市の鉢ノ葦葉(サイト内記事)に食べに行った時、厨房に新しいお弟子さんが加わっていて、その男性こそ「現・紫陽花店主」戸谷さんだった。店に行く度に少しずつ話すようになると、東京のラーメン事情も詳しいので「何者なんだろう?」と興味を持ったものだ。そしていよいよ独立となった時はオープン日に行かせてもらい、新店のオープン日では異例の大行列に驚いた。その後の活躍は説明する必要も無いだろう。名古屋ラーメンを背負う立場になった今、どんな話が聞けるのか楽しみだ。"らぁ麺 紫陽花"戸谷店主にKRK直撃インタビュー!


- 出身は?

「三重県です。三重県にいたのは二十歳くらいまでで、それから愛知県に引っ越しました。」

 

- ラーメンは昔から好きだったんですか?

「三重県にいた頃は全く食べていなかったですね。ラーメンを食べ始めたというかラーメンマニアになったのはけっこう遅くて、22歳の頃でした。」

 

- (三重では全く食べていなかった)ラーメンを好きになったきっかけは?

「ある日、弟が好きなラーメン屋があって誘ってくれたんです。あまり興味なかったんですけど、食べてみたら凄く美味しくて『ラーメンっていいな~』と思い始めました。今は閉店してしまったんですけど三重県桑名市にあったラーメン屋さんです。食べ歩きのきっかけではなくて、ラーメンが好きになったきっかけのお店です。」

 

- ラーメン食べ歩きを始めるきっかけのお店は?

「23歳の頃に蟹江の『極太濁流ラーメン ロッキー」というお店に嵌りました。今は店主さんは変わっていますが、当時の店主さんの人柄がとても良くて、湯切りをしている姿がとにかくかっこよかったんです。あの人に憧れたのがラーメン屋さんを食べ歩くきっかけになりました。味というよりも店主さんの生き様とか凄く憧れました。」

 

- 食べ歩きを本格的に始めてからは?

「最初はmixiから始めて、それからラーメンブログをやり始めました。食べ歩きの写真とかレビューだったり、自分の自作ラーメンの写真とか載せていました。」

 

- 食べ歩きしていた範囲は?

「けっこう全国的に食べ歩いていましたね。最初の方の投稿ですでに大阪のお店とかも載せていました。」

 

- 自作をしていたのは、いつかラーメン屋をしたいという気持ちが?

「最初は全く考えていなかったですね。例えば新潟の燕三条の背脂煮干しラーメンを食べた時に『これを自分で作ったらどうなるのかな?』って感じで、自作ラーメンを料理的な感覚でしていました。その場所でこのラーメンが流行っている、お店が根付いている理由とか考えながら作るってのが僕の楽しみでした。」

 

- 当時は他の仕事をしながら?

「人と接することが多い仕事で、職場で手造りのラーメンを出す機会があった時は夜キッチンで100杯分を作ったりとかしていました。2回目に作る時は丸和さん(つけ麺 丸和)で製麺機を借りて麺を打って、店でスープも炊かせてもらいました。職場の皆さんに提供したらすごく喜ばれましたね。「丸和」久留宮さんとは食べ歩きを通して知り合うようになり、今でもう12年くらいのお付き合いをさせていただいています。」


- その頃にはラーメン屋をしたいと思っていましたか?

「誰かに食べてもらうことに喜びを感じてからはもう居ても立っても居られなくなって、職場に『僕、東京にラーメンの修業に行きたいんです!』と伝えました。」

 

- 東京を選んだ理由は?

「自作ラーメンをしていた時に、東京に有名な自作ラーメンマニア『にゃみさん』という人がいました。その人のホームページとか見て『この人の自作ラーメン、凄いな~」と憧れていました。実はその『にゃみさん』という人は、後に独立し『らぁ麺やまぐち』をする山口さんだったんです。それからその『にゃみさん』が店長をしているお店があることを知りました。そのお店が『麺創研かなで 紅』。店長が山口さんということもあって、そこで働きたいと思って東京へ行きました。」

 

- すぐに入れたんですか?

「全く事前連絡をせずに飛び込みで面接をしてもらいました。面接では『面接に来たのはいいけど、もし合格できなかったらどうするの?』と聞かれたので、『後のことは考えていません!』と答えました。後日『合格』と連絡をもらいお世話になることになりました。」

- 初めてラーメン屋で働いて、どうでしたか?

「自作ラーメンをしていたからある程度は素材とか調理方法とか知っているつもりだったんですが、こんなにも通用しないものかと驚きました。専門職としてしている方たちの仕事の凄さを痛感しました。自分の中では3年ほど修業してから名古屋で独立したいと考えていたんですが、正直、僕が自分でするのは無理だと思ったくらい大変でした。」

 

- そこでは何年くらい?

「3年ほどお世話になりました。当時、福岡の早川さん(現・はや川店主)も僕の後輩として同じ店で働いていました。」

 

- 修業を重ねて自信も付いてきましたか?

「修業をしている期間に、大地震(東日本大震災)を経験したんです。計画停電をくらって営業をできない日が続き、僕自身も自信をなくしていたのも重なり先が見えなくなっていました。

 その後に"かなで"がリニューアルをして、目の前に煮干しラーメンの別ブランドのお店を始めることになりました。最初は山口さんが店主をしていたんですけど、その後に山口さんが『お前、やってみるか?』と言ってくれて、麺上げやスープ管理をやらせてくれたんです。その時に『ちゃんと見てくれていて、評価してもらえてる』と感じて、結果が少し出たってことがやる気に繋がることになりました。当時は山口さんには人生相談とかさせてもらって心の支えになってもらっていました。」

 

- その後、かなでを離れてからは?

「僕が2年目の頃に山口さんは退職して、2018年9月に『らぁ麺やまぐち』として独立しました。僕は山口さんに憧れて"かなで"に来たので、山口さんが離れてから迷いがありました。それで『かなでを辞める』と決めてその日が近づいてきている時に、急に鉢ノ葦葉の大将からメールがあったんです。」


- 堀店主(鉢ノ葦葉 店主)から?

「僕が辞めるってことを誰かから聞いたんでしょうね。『ウチでやらない?』という話をいただきました。僕がラーメン食べ歩きをしていた頃に鉢ノ葦葉には何度も行かせてもらっていて、いろいろ話をさせてもらっていました。僕の頭の中では『あんな凄い人と働けるんだ!』という気持ちでしたね。東京に行ってもあまり自信を付けられなかったので、自分としては四日市市で頑張ろうとすぐに決めました。」

 

- 鉢ノ葦葉では?

「大将(堀店主)の考え方として『ラーメンは作りたいものを作れ。お前はやっていけば美味しいラーメンを作れる。それ以上に人間として大事な礼儀を持って生きていくということを教えてやりたい。お前は今のままやっても美味しいラーメンを作れるかもしれないけど、人に迷惑をかけて誰にも信用されない人間になってしまうぞ。』ということだったので、"人として"というところを強く毎日教えてもらいました。」

 

- その教えが独立した今に活きている?

「今でも大将からもらった助言、厳しい毎日を経験させてもらったからこそ、こうして頑張ることができていると凄く思います。人間として強さを持つ大将と、そこについていこうとする僕。何度か心が折れそうになることがあったんですけど、大将の教えは厳しい中にも芯があってただ怒っているわけでなく、その後に結果を出した時には『よくやったな。頼むぞ!』とか言ってくれました。自分のお店を頼むぞとか褒めるのは凄くパワーがいることだと思うんです。大将はそれを僕に常に言ってくれていて、だから頑張って続けられたと思います。」


らぁ麺 紫陽花(2015年4月10日オープン)


- 自分の店の場所をここに決めたのは?

「三重県で住んでいた頃から名古屋で動くことが多かったので土地勘があるし、丸和さんに物件探しを手伝ってもらったのもあります。この場所のすぐ近くに僕の以前の職場があるので、この物件に出会った時に凄く縁を感じて『ここでやりたいな!』と思いました。駅から1.5キロあるとか、交通量が少ないとか不安な面もありましたが、『あのお店に行きたい!』と思ってわざわざ足を運んでもらえるお店を作りたかったので、この場所に正式に決めました。」

 

- 屋号の由来は?

「前の妻が紫陽花を好きだったのと、醤油のことを紫ってよく言うんです。僕は醤油ラーメン専門店がしたかったので、それで紫っていうのが凄くいいと思いました。カタカナや平仮名でなく『らぁ麺』としたのは、日本食としてのらぁ麺を目指したいという気持ちです。中華料理でもなく創作でもなく、ちゃんと日本で生まれた醤油で作ったらぁ麺を作りたい。盛り付けをきっちりし、トッピングの一つ一つに手を掛けて一つの料理を作るって意味合いで考えました。」

 

- 自分の店で提供するラーメンは迷いましたか?

「27歳で東京に行った時から決めていました。その時から頭の中で醤油ラーメンを軸として、自分の好きな担々麺、そして濃厚な煮干しの効いたつけ麺でやりたいと思っていました。だからオープン日からそのラインナップで始めました。」

 

- オープン日から大行列で新店ではありえないスタートでしたが?

 「自分が上手くいかない毎日が続いていた時期なので、喜ばしいというよりも苦しかったです。多くのお客さんが毎日来てくれたりとか、グルメサイトで高評価をしてもらったりとか恵まれていましたが、自分のラーメンはそこまでいっていないという気持ちだったので辛かったりだとか複雑な気持ちでした。プレッシャーですね。とにかく弱かったので自分のラーメンを信じきれていない頃でした。」



- 看板の醤油らぁ麺で大事にしているポイントは?

「今も変わっていないところは、出汁が強いのに醤油感がしっかりあるというところです。醤油の強さは一般的には好まれないことが多かったんですよね。だからオープン当初は『醤油の味しかしない』とかよく言われていました。それは単純に僕の力量不足だったので、なかなか納得できるものが作れない毎日を繰り返していたので苦しかったですね。でもその方向性を変えないで、醤油感があってもちゃんと出汁が効いていて、そして美味しいというものを作ろうと取り組んできました。醤油の強さ、味が濃いとか薄いとかじゃなくて、醤油をバシッと感じてもらいたい。そこばっかりでしたね。」

 

- とにかく醤油ありきなんですね。

「はい。醤油ダレを使ってウチの全てのメニューは成り立っています。今、新しいメニューで煮干しらぁ麺もあるんですけど、見た目は塩なんですけどこれは白醤油を使っています。エゴでもあるんですけど醤油の熟成された深さとか、塩だけでは無しえないところがあるんです。」

 

- オープン時からメニューにある担々麺への拘りは?

「僕は担々麺が昔から好きで、東海だけでなく東京でも担々麺を食べ歩いていました。関東と東海の担々麺の違いってのが明確にあって、東京のはどちらかと言うと芝麻醤を控えめで麻と辣のスパイス感で持っていくのが多い。東海は芝麻醤が多めで濃度が高いタイプが多くて、口当たりがマイルド。僕はどっちも好きなんですけど、ウチではどちらの個性も持ち合わせた担々麺を作りたいと思いました。」



- 今はプレッシャーとも上手く付き合えていますか? 

「地元だけでなく、たくさん県外の方が来てくださっています。自分のお店の醤油らぁ麺。『これ、どこかで食べたことある味!』とか思われないように、紫陽花でしか食べられない醤油らぁ麺を作ろうと取り組んでいます。また来てくださいという気持ちを込めて作っています。」

 

- お弟子さんも増えていますが、常に厨房には立っていたい?

「僕はお店に絶対に立っています。僕の作った醤油らぁ麺を食べにきてくださっているという気持ちで毎日しています。同じ材料で同じように誰かが作っても、お客さんの感じ方は凄く変わってしまう。僕も食べ歩きの時にそういう経験がありました。自分の根本がそこだったので、お客さんを裏切りたくない。安心感に繋げたい。弟子がラーメンを作れないというわけでなくて、弟子は独立した時に自分の味で勝負してもらえたらいいと思っています。」

 

- 谷店主が大事にしていることは?

「美味しいラーメンを作ることは当たり前と思っていて、自分が生きてきた中で一番食べたのがお母さんのごはん。お母さんのごはんを家族で食べて御馳走様をするっていうのが、僕のラーメンの本質なんです。美味しい、不味いは人それぞれありますが、それ以上にその人の人生を明るく幸せなものにできるのがラーメンだと思っているので、来てくれるお客さんに感謝して、ウチのラーメンを食べている間だけでもいいから幸せな気持ち、温かい気持ちになってもらえるように毎日取り組んでいます。良いものを作ろうという気持ち以上に、みんなが幸せになってもらいたいというのが僕が大事に持っているところです。人の人生に関わっていける仕事だと思っているので、身体を壊さず長生きしてやっていきたいと思っています。」



 <店舗情報>

らぁ麺 紫陽花

住所:愛知県名古屋市中川区八剱町4-20-1 コーポ源 1F

twitter:https://twitter.com/ramen_ajisai

Facebook:https://www.facebook.com/ajisai.ramen/

instagram:https://www.instagram.com/hydrangea410/

オープン日:2015年4月10日

 (取材・文・写真 KRK 令和2年8月2日)