Vol.211:らーめん与七


 今回取材するのは滋賀県大津市の「らーめん与七」。比叡山の麓、琵琶湖大橋を渡ってすぐの街にある人気店だ。店主と初めて会ったのはまだ奈良県の「しゃばとん」で店長をされていた頃だ。あれから10年以上が経って、滋賀県を代表する人気店を背負う立場になった川村店主に取材することは、とても感慨深いものがある。「らーめん与七」川村店主にKRK直撃インタビュー!


 - 出身は?

「生まれも育ちも大津市です。ここは堅田なんですけど、地元はここから二駅離れた和邇(わに)って所です。」

 

- ラーメン屋をする前は?

「祖父が与七という名前なんですけど、与七が現在のJR湖西線ができる前の江若鉄道っていう私鉄があった頃にその和邇駅前で食堂をしていて、親父も自営で鉄鋼所をしていました。それで親父が『商売は厳しいからお前はサラリーマンになれ!』と言っていました(笑)。それで高校卒業して大津市の石山に当時あったNEC 新日本電気に就職し、そこで28年間ほどお世話になりました。」

 

- ラーメンに興味を持ったのは?

「『ラーメン屋っていいな〜』と思ったのが35歳の頃でしたね。きっかけの一つは和邇に某ラーメン屋さんがオープンして凄い繁盛していて、『華やかでいいな〜』と思っていました。

 もう一つのきっかけは知り合いのプロゴルファーの方とゴルフ帰りに行ったラーメン屋さんでしたね。『美味しいラーメン屋さんがある』と紹介してもらって寄ったお店なんですが、そのお店が創業したばかりの野洲市の来来亭さん(現・来来亭 本店)。ラーメンも美味しかったんですけど、精算時に厨房から凄い大きな声で満面の笑顔で『ありがとう〜』って。『この商売は凄いな〜』と衝撃を受けました。」

 

- ラーメン屋をしてみたいと?

「いいな〜と思ってから実際にしようと思うまでは距離があって、やっぱり家族もいたので娘が義務教育を終えるまでは安定した仕事が必要と思っていました。何かをやるにしても親の最低限の義務みたいなのは果たさないといけないとサラリーマンをしていました。しかしサラリーマンをやっているといろいろ先が見えてきて、自分の性格として合わないなと思い始めました。それで定年まで続けるか迷っていました。」

 

- 会社を離れるきっかけは?

「その思いが限界というか、もう無理って思う頃に一番下の子が高校を卒業しました。それで『今だな。やろう!』と決めました。その時に辞めようと決断できた理由の一つとして、NECにセカンドキャリア支援制度というのがあったのも大きいですね。45歳になったら給料をもらいながら2年間、自分の好きな所で勉強していいという制度でした。タイミング的にもそれでとても助かりましたね。」

 

- その時、頭の中にはラーメンだけ?

「他は全く考えていなかったです。ラーメンを簡単に思っているわけではなかったんですけど、やってもラーメン一品完成というのに特化してやらないと失敗するなと思いました。年齢的なもので時間も無かったですからね。」


- 修行先のお店との出会いは?

「好きでラーメン食べ歩きはいろいろしていたんですけど、最初はここで修行したいってお店は無かったんです。ある時、知り合いが『ここで食べたで!』とラーメンの写真を送ってきたんです。その写真が無鉄砲のラーメンの写真で、その時に『おっ!』ってとても気になったんです。それで次の休みに木津川市の本店に食べに行きました。」

 

- 無鉄砲に初めて行って、どうでしたか?

「『おーっ凄い!こんなラーメン初めてだな』と衝撃でしたね。それで自分で無鉄砲についていろいろ調べてみたら赤迫店主(当サイト記事)が熱いし、無鉄砲さんも凄い勢い。惹かれるものが凄くありました。それで無鉄砲さんで修行したいと決心して、お店に電話して面接していただきました。」

 

- 面接で将来の独立志望は伝えたんですか?

「はい。年齢的なこともあるので2年ほどで卒業したいとお願いしました。」

 

- 初めての飲食。無鉄砲での仕事はどうでしたか?

「近所にアパートを借りて原チャリで通っていました。肉体的にも精神的にも厳しかったですね。最初は本店の朝の仕込みをして、少ししたら夜営業と片付けも。数ヶ月経ってから無心で製麺のお手伝い。ありがたい経験をいっぱいさせてもらいました。そして8ヶ月ほど経った頃、赤迫社長から『今度しゃばとんって新店舗をするけどやってみるか?』と聞かれました。」

 

- いきなり新店舗の店長(驚)!

「『やってみたいです!』と返事しました。僕の年齢的なこと、短期間で独立というのを考慮して経験のためにやらせてくれたんだって今となっては思いますね。」

 

- それから卒業までの流れは?

「当たり前ですが、店長になったらもっとハードになりました。労働時間が長くなって店に寝泊まりすることも多かったんです。ちょっと体調が悪くなって病院にも行ったりしていたんです。そういうのも見ておられたと思うんですけど、ある日、赤迫店主から『もう上がっていいよ!』と突然電話があったんです。」

 

- 「上がっていいよ」とは?

「もう卒業していいよって意味です。」

 

- 無鉄砲にいた期間は?

「無鉄砲に入って一年半くらいでしたね。習得するか否かは別として、ありとあらゆる経験をさせていただきました。本店、無心、がむしゃら、しゃばとん。各店舗でしていることも少しずつ違いますので、いろんな場面の仕事を経験させていただきました。」


◆2011年12月13日オープン


- 屋号の由来は?

「いろいろ考えていたんですけど決め切れなかったんです。それで食堂をしていたおじいちゃん(与七)から名前を頂きました。日本人の好きな"七"という文字も入っていますしね。赤迫社長に連絡して許可をもらって、与七に決めました。」

 

- オープン日は?

「2011年12月13日です。1月スタートが税の面とかで効率いいんですけど、ちょっとでも早くしたいと思っていました。」

 

- 場所は滋賀と決めていた?

「滋賀ですると決めていました。無鉄砲から離れてから場所を探し始めました。修行している間は一切の時間が無かったですからね。」

 

- 堅田に決めたのは?

「和邇は人口が少なくて商業地域として適していない。でも地元の近くでしたいと考えた時に堅田しか無かったんです。それで堅田で探していてこの場所はコインランドリーだったんですが、『ココいいな〜』と思っていたんです。それで2回目に探しにきた時、ちょうど閉店って紙が貼っていてすぐに決めました。」



- 提供する商品は迷いましたか?

「無鉄砲で習ったそのままのラーメンしか自分はできません。習ったこと以上のことはしないと決めていました。修行時代から思っていたのは、滋賀県につけ麺屋が無いということ。つけ麺を意識したのは無鉄砲で参加した東京のつけ麺博でした。その時に『つけ麺で有名なお店がこんなにあるんだ!』と驚きました。それで滋賀県のお客様につけ麺を食べてもらいたいと思いました。なので無心の製法が今のウチの製法になっています。」

 

- 無心の製法とは?

「無鉄砲の釜からあげるスタイルは取っていなくて、無心の『いい所を取り切ってその変わらないものを出す』というスタイルです。」

 

- オープン時の商品は?

「豚骨ラーメン、まぜそば、醤油、あっさり豚骨、つけ麺を出していました。麺は麺屋棣鄂さんの麺をずっと使わせてもらっています。」

 

- お客様の反応は?

「オープン当初は物珍しさもあって多くのお客様に来ていただきましたが、それから一年半ほどは厳しかったですね。もう限界かなと思った時期もありました。」

 

- ターニングポイントは?

「当時、この地域では天下一品さんが圧倒的な人気でした。その天下一品さんが近場で移転することになって半年ほど休んだ期間があって、その期間にお客様がどっと増えましたね。多くの方にウチのラーメンを食べてもらえたことで、それ以降はお陰様でずっと多くのお客様に来ていただいています。」

 

- 川村店主が大事にしていることは?

「赤迫社長から教わったことなんですけど、お客様が不機嫌で来られても機嫌良く帰っていただけるラーメンを出せ。これをいつも忘れないようにと。機嫌良く入店されたお客様を気分悪く帰らせるお店は絶対あかん。そんなお店が続くわけがないといつも従業員に言っていました。その言葉を大事にして、毎日営業させてもらっています。」


◆店舗情報

らーめん与七

滋賀県大津市今堅田2丁目40-25

twitter:https://twitter.com/p0385328

オープン日:2011年12月13日

 (取材・文・写真 KRK 令和3年2月23日)