Vol.42:ラーメン無鉄砲


 奈良と京都の県境、初めて来る人は「道を間違ってるのかも?」と不安になる頃に、突然、大きな看板が目に入ってくる。"ラーメン無鉄砲"だ。唯一無二の豚骨ラーメンを看板に、"無鉄砲というジャンル"とまで言われてる人気店だから、こんな山奥なのに大雪の日でさえも行列ができている。私が特に感心したのは幅広い客層を意識しての無難なラーメンでなく、無鉄砲のラーメンはガチ豚骨。客に媚びず、己の味を徹底的に追及してるという強い気持ちがヒシヒシと伝わってくる。

 無鉄砲に行くことがあれば、外待ちで並んでいるお客さんの顔を見て欲しい。皆がワクワクと楽しそうに長時間並んでる。無鉄砲に行くこと自体が1つのアトラクションのようなイベントになっているんだと思う。ここまでの存在になるまでに、どんな道を通ってきたんだろう?緊張はするが、聞いてみたいことは山ほどある。総本山の店内でお話しをたっぷり1時間聴かせて頂いた。"無鉄砲"赤迫代表にKRK直撃インタビュー! 


- 出身は?

生まれたのは京都です。それからは父親の仕事の転勤で、千葉、富山、広島、神戸、日本全国を転々としていました。」

 

- 当時、ラーメンは好きでしたか?

「カップラーメンくらいでしたね。自動販売機でお湯入れるレトロな。その頃は日清さんがカップヌードル出したり、焼きそばUFOが発売になったり。衝撃受けましたね。」

 

- 将来の夢?

「小学校の卒業文集には、『将来の夢は画家』と書きましたね。絵が好きで、独学で絵ばっかり描いていましたから。」

- ラーメンに興味を持ち始めたのは?

「高校生になってからですね。中学、高校が奈良でした。その頃は親の転勤も落ち着いて、奈良にお家を建てたんです。で、天理のサイカさんを初めて食べて、あの雰囲気、お店もあれば屋台もあり、味もいろいろ違ったり。高校生だったんですが、『こういうインパクトあるラーメンがあるんだな?』と思っていました。その時はまだ奈良に豚骨ラーメンの店が無かったんですよね。」

 

- その頃は何に興味がありましたか?

「中学、高校で卓球をやっていて、高校の時は国体選抜、奈良県で3位とかでした。それで大学もスポーツ推薦で入ったんです。選んだのは九州の大学でした。本当は他にも有名な大学から声がかかっていたんですが、そういう大学に入っても勉強がついていけないのが分かっていたんです。そして宮崎の大学は僕が一期生で一番ってこと。名前が赤迫なので。それで一期生の一番って歴史に残るじゃないですか(笑)?『これ、おいしいな』って。それに学費とか考えたら、東京の大学より九州の方が物価が安いし、親にとってもありがたいんじゃないかと思いました。それで宮崎の大学に決めたんです。」

- 宮崎での出会い?

「大学4年の時に某ラーメン店が大学の近くに移転してきたんです。たまたま食べに行ったらその味に嵌まってしまって、一日2~3回食べに行ったりとか(笑)。自分の味覚がその店(以降A店で記載)の豚骨にとても合ったんです。まだプレハブの店舗で豚骨ラーメンだけだったんですが、他には高菜があって、ごはんもお代わり自由だった。大学生にはありがたかったんですよね。」

 

- 他のラーメン店は?

「4年生になるまでに、多くのラーメンを宮崎で食べるじゃないですか?豚骨、ちゃんぽん、とか。宮崎はラーメン屋さんが多いですから、けっこう食べに行っていたんですが、一番衝撃を受けたのがA店さんでした。それまでも白濁した豚骨、九州でけっこう食べていたんですがそこまで感動しなかったんですよ。僕、あんまり細麺が好きじゃないんです。どこで食べても細麺だったんですよ。そういう面でもA店さんの麺はちょっと縮れていて、『九州にもこういうラーメンがあるんだな?』と思いました。」

 

- 食べることだけでなく、作ることにも興味を持ってきたんですか?

「当時は『A店さんで働きたい』ってことではなく、ただ食べるのが好きだっただけです。その頃は画家という夢も無いし、卓球で飯喰っていこうという気もなかった。ラーメン屋をしたいという気持ちも全く無かったと思います。ただ、A店さんの豚骨ラーメンが好きだっただけです。その頃、A店の店主さんの記憶に残るっていうか、『自分のことを憶えておいてもらおう』ってことに必死でしたね。たぶん、心のどこかには『いつかここで頑張りたいな』という気持ちがあったかもしれないです。」


- 大学を卒業して?

「和歌山の大手製鉄所の工場で、現場監督として働き始めました。鉄鋼関係で、作業着を着て真っ黒になって、ヘルメットかぶってゴーグルしてって感じでした。高所嫌いなのに命綱して高い所に上ったり、工場の地下に潜ったりしていましたね。元々、宮崎の大学では経営学部。工業系じゃないんですが、当時は自分でも何の仕事をしたいのか分からなかったんです。その時代ってバブルの絶頂期だったので、大学を出ていきなりラーメン屋さんにってのは親不孝と思っていたし、とりあえずサラリーマンを3年くらいはしようかなって。経験にもなるしって感覚でしたね。体力には自信がありましたから。」

 

- 和歌山のラーメンは?

「地元の人に聞いて多くの有名なラーメン店さんを食べ歩いていました。しかし、どこを食べてもA店さんと比べてしまって『なかなか無いな~』と思っていましたね。九州って遠いじゃないですか?とにかくA店さんの豚骨ラーメンが食べたかったんです。大学時代に毎日食べていたラーメンを失ってしまって、代わりになるラーメンを探してもなかなか無いし。全く合わないってわけでなく、どこのラーメンも美味しいんですよ。ただ好みってのがあるんですよね。A店さんの豚骨が自分に嵌まり過ぎていたんです。 」

 

- そして仕事を辞めることに?

「入社式の前までに、和歌山でラーメンをいろいろ食べ歩いていたんです。もうその時に『3年後には辞めて、A店さんで修行を始めよう』と決めていました。会社の人にも言っていましたからね。和歌山でラーメンを食べている内にストレスがたまってきて、これで一生サラリーマンも嫌だな。会社に入っての将来が見えなかったんです。」


- 仕事を辞めて?

「A店さんに電話をしました。会社を辞める半月前だったかな?A店さんに電話をして『数年前に1日2~3回食べに行ってた者です』って。僕が通ってた頃、A店の店主さんに小さい子供がいたんですよ。それで僕を憶えてもらうために子供にUFOキャッチャーのぬいぐるみをあげてたんですよ。その事を電話で言ったら『あ~、憶えてる』って言ってもらえました。

 それで『A店さんで修行をしたいって思ってるんです』って言ったら、店主さんが『とりあえず話を聴こうか』って言ってくれたんです。その時点で僕は合格って思い込んでしまって、会社を辞めて荷物をまとめて宮崎に向かいました。しかし、A店さんに行ったら難しい顔をされたんです。『今、社員が一人いて』って。数ヶ月ちょっと前に一人社員として入っていたんです。」

 

- 断られてしまって?

「これは困ったなって。親も反対してたので保証人がいないので、アパートも借りれない。就職先は無い。それで宮崎の大淀川って川があるんですけど、テントを買ってきてその河川敷で1週間ほど寝泊まりしてたんです。そして何度もA店さんにお願いに行って、それでなんとか引き受けてくれたんです。それが1993年ですね。」

 

- 働き始めて?

「料理は初めてだったので、全部が新鮮でしたね。ネギも切ったことなかったですから。1日目から失敗もしましたね。スライサーで指を切ったりとか。師匠はけっこう厳しい方。ただ、賄いでラーメンが食べれるだけで幸せでした。その時は給料がもらえるって思ってなかったので、お店に内緒で新聞配達もしてたんですよ。でもA店さんで給料をもらえたのでびっくりして(笑)。それですぐに新聞配達は辞めました。」

- 当時、独立志望は?

「入った頃は『A店さんにずっといてもいいな』って思ってたんです。そしてA店さんに入って下っ端でずっとしてる頃は、なかなか味が見つけれなかったんですよ。そして店舗展開が始まって、僕はA店の支店の店長になったんです。店長になって作ってる間に『自分で喰っても美味いな』って思うスープが徐々に出来上がってきて。そしてお客さんの丼の中の残ってる量とかチェックすると、みんな飲み干してくれてるですよ。そういうので自信がついてきて、『同じ材料を使って自分の店をできるんじゃないか?』って気持ちが出てきました。そして5年目にA店さんを辞めさせてもらうことになりました。」


- 奈良で自分の店を?

「『やるなら親がいる奈良がいいかな?』って。商売で考えたら大阪がいいかなって思ったんですが、自分は長男ですし、親の面倒もみていくなら『やっぱり奈良かな』って思いました。」

 

- 屋号の由来?

「『自分の店をやろう』って考えてた時にいろいろ考えましたね。それで自分の性格、今まで生きてきた人生にピタって嵌まる言葉として頭に浮かんできたのが『無鉄砲』でした。河原で生活してたこととかも含めて、無鉄砲って言葉が自分には合っていると思いました。当時ね、ラーメン屋っぽいかっこいい屋号が多かったんですよ。しかし『無鉄砲』って屋号はその時代では変な名前っていうか、鉄板焼き?居酒屋?って思われたことが多かったので、看板に思いっきり"ラーメン"って書かないとラーメン屋って思ってもらえないくらいでした。一生懸命でしたよ。文字の大きさとか拘ったりとか。」

 

- 場所?

「あの場所(創業店)に張り込んで、人の流れ、『同じ人がけっこう通るな』とか見ていました。オープン前にはダンボールに『6月7日オープンします』って貼り紙をして、僕一人で突っ立って宣伝してました。目が合う人が多かったし、ここで商売できるわって確信もありました。」

 

- 豚骨メインの店で不安は?

「自信はそんなに無かったですよ。その時はまだ関西や全国規模で考えていなくて、奈良の人に『変わった豚骨ラーメンを食べてもらいたいな!自分が美味しいって思ったラーメンを食べてもらいたいな』って気持ちでしたね。」

- そしてオープン?

「1998年6月7日に開店しました。最初、水まで取り寄せていたんですよ。霧島の水をね。全部の材料をそのまま使いたかったので。」

 

- 麺?

「元々、僕がA店さんに客として通ってた時は宮崎県の某製麺所の麺だったんですよ。それが僕が働いてる時に自家製麺に変わったんです。自家製麺の拘りってのはあるんだろうけど、僕は自家製麺への拘りってよりも自分が生きてきた、そして客として食べてきた時の製麺会社との繋がりってのを大事にしたい。だから無鉄砲に関してはずっとその某製麺所さんの麺。麺が弱いって言われようが、ずっと宅急便で取り続けています。そちらの社長さんも健在で僕が修行してる時も知ってるし、お客さんとして通ってた時も何度か顔を合わせていた。僕はそういう歴史とか繋がりを大事にしたい。そういう面のやりとり、コンタクトもとりやすい。」


無鉄砲 京都本店(2003年12月22日オープン)


- 創業店の移転?

「いろいろ諸事情があって。突然に移転したのでみんな理由は知らないんですよ(笑)。京都店は既にあったので、こっち(京都店)にお客さんが流れてきましたね。その年に大阪店を出したんです。奈良の創業店を閉めたその年の6月7日ですね。無鉄砲の創業に合わせて、6月7日にオープンしました。」

 

- 豚の骨?

「その後、創業の店の近くに"豚の骨"をオープンしました。創業の時は周りに何も無かったんですよ。それからマクドナルドさんができて、ベビーフェイスさん、牛角さん。競争相手ってのが徐々に増えてきて、その度に頑張ろうって思えましたね。神座さんがオープンした時はびびりましたよ(笑)。オープンの時、見に行ったんですよ。何百人って並んでいましたからね。」

 

- なぜ"豚の骨"って屋号に?

「なんかひっそりとやろうかなって思ったんですよ。名前でお客さんを引っ張るのが嫌になってきて。それで、その後は"しゃばとん"、"がむしゃら"、"無心"とか。名前じゃなくて、味でお客さんを引っ張らないと生きていけない世界だと思うから。無鉄砲って名前で例えば兵庫県とか岡山県に出したらビジネス的にはいいかもしれないけど、『それは面白くないな』って思った。隠れてやって口コミで拡がっていく方がかっこいいよなって思った。」



- 無心では"つけ麺"を?

「つけ麺に興味がなかったんですが、当時、東京に行ったらとても流行っていたんです。それで『勉強しに行こう』って社員のみんなで東京へ食べに行ったんです。それで『ウチのスープはつけ麺のつけ汁に合うよな』って思ったんです。首都圏の幾つかの有名店でつけ麺を食べて。自分の課題としては"麺"だったですよ。『ウチのスープに合う麺ってどの麺かな?』って思ってたんですよ。いろんな店で食べてる内に『千葉の某有名店さんの麺が一番合うな』って思ったんです。当時はそちらの店主さんとは全然知り合いじゃなかったんですよ。普通に客として食べに行って、ビール飲みながらつけ麺を食べてました。向こうは『無鉄砲や』って気づいてたらしいんですがね。」

 - 気に入った麺に出会って?

「その千葉の有名店さんに食べに行った時に"アルバイト募集"って書いてたので、電話して雇ってもらいました。電話して『無鉄砲の赤迫です』って名乗って、『つけ麺をやろうと思ってるから、麺だけ教えて欲しい』って。僕、そういうところは貪欲なんですよ。」

 

- その店主さんの反応は?

「『赤迫さんだったらいいですよ!』って快くOKしてもらえました。それで2週間ほど麺だけ教えてもらって。ラーメン屋の店主になるとなかなか勉強できる機会がないから、良い経験でしたよ。勉強させて頂きました。麺はどこの製麺機を使って、小麦粉はどこから仕入れてるのか?って。それで今、その当時のその店主さんが使用していた同じメーカーさんの製麺機を2台持っています。それから"豚の骨"でつけ麺の限定営業を数回した後、その年に無心をオープンしたんです。その店主さんに感謝しています。僕は人の縁に恵まれています。」


- 2010年、東京進出?

「当時、日本全国のラーメンランキングって特番が年末にあったんですよ。僕はその順位に満足できなくて、一位の店とか見てたら関東の店ばかり。それで関西で始まって生まれた無鉄砲が東京でどこまでやれるのか?勝負したかったんです。関西だけに店舗展開しても、なかなか全国に名前を轟かすことが出来ない難しさがあるのも現実。『東京に出店するなら、勿論甘くはないだろうけれど、精一杯、無鉄砲の豚骨でお客様に喜んで頂けるように』と思って、"無鉄砲 中野店"と"無極"を同じ月に『勝負だ!どんな場所でも頑張ろう!』という気持ちでオープンしました。」

 

- 現在の気持ちは?

「数年前まではテレビや雑誌のラーメンランキングとか興味あったんですが、今はあまり興味が無い。僕はもうラーメンランキングとかに固執するよりも、本当にお客様に喜んでもらうことに重点を置いています。それが無鉄砲らしいというか、自分らしいかな?って思っています。」



- お弟子さんの独立?

「弟子の独立に関しては、各県に一店舗って思っている。与七の店主にも『滋賀県は頼むからな』って言っています。がんたれは和歌山。外に出ると内輪で喧嘩になるんで。」

 

- 醤油ラーメン?

「店舗によって魚は全部変えてるんですよ。やっぱり豚骨が苦手の方っているじゃないですか?間をとったらWスープとかもあるんですけど。こってりした豚骨が苦手なお客様に対する、魚がお好きなあっさり好きなお客様の選択肢として醤油ラーメンがあるって感覚です。」

 

- お見送り?

「自分が創業の店からしてたこと。店の常連さんと食べた後に話してたんですよ。なんか気持ちが良くて、そういうのってすごく大事だなって。」

- 業界の友達?

「欲しいけど意外と人見知りでできないんです。みんな怖がっているんですよね(笑)。イベントの時とかもラーメン作ることに必死なので、他のラーメン屋さんと話しないですしね。」

 

- 他店とコラボ?

「今までの経歴では、仙度さん(あっぱれ屋)、とみ田さん(中華蕎麦 とみ田)、大鶴さん(天神旗)とかとコラボしましたね。この3人の店主さんとは何か気が合うんですよね(笑)。」

 

- 屋外イベント?

「イベントに行く時もお店と一緒の気持ち。同じ味を出すのが目標。もちろん難しいですよ。火力も追いつかないし。店舗ごと引っ越し並みに羽釜の設備を持ち込んで、徹底的に火力が追い付かない分、夜中でも現場で炊き込むのが当たり前だと思っています。やっぱりどんなイベントでも参加する以上、本物の豚骨を出したいし、『本気でいきたいな』と常に思っています。」

- 大事にしていること?

「不器用なお店なんですけど、お客様に感動を与え、幸せにして心を動かすようなラーメン屋になりたい。『なんであそこはお客さんがいつも大勢並んでいるの?』って意味不明な地位まで上り詰めたいなって。『お客さんの好みに近づけたらいいな』って常に思っています。やっぱり喜んでもらいたいんですよね。」



<情報>

■ラーメン無鉄砲

公式HP:http://www.muteppou.com/

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(取材・文・写真 KRK 平成28年12月)