Vol.22:セアブラノ神

新潟のご当地ラーメンである「燕三条系ラーメン」を京都で看板メニューとして提供してるラーメン店がある。その店は「セアブラノ神」だ。 一度耳にしたら強く印象に残る屋号だし、提供してるラーメンも「京都ではここだけしか」というラーメンだ。個性派揃いの京都ラーメン界でも独特のポジションを築いていて、ファンも増えているんだろう。とにかく名前をよく耳にするし、2号店出店などでとても勢いが感じられる。噂では元々は焼肉屋をしていたようだし、未知の部分も多くありそうなので楽しいインタビューになりそうだ。このインタビューのために閉店間際に訪れたら、まだ満席でとにかく忙しそうだった。セアブラノ神 中野店主にKRK直撃インタビュー!


- 出身は?

「この場所です。京都です。昔、おじいちゃんが友禅染の工場をしていました。このマンションになる前ですね。親父が代替わりしてからここはマンションにして、工場とか事務所は他の場所に分散しました。」

 

-ラーメンは?

「食べ始めは大学の頃ですね。25年前とか。学校の友達と一乗寺の天天有とかに食べに行っていました。」

 

-その頃は?

「大学でずっとアメリカンフットボールをしていまして、4回生の頃に親父が亡くなった。自分が『バイトもしなあかん』ってことになって、昼は学校、夕方が練習だったので、夜中しか時間がなかったので水商売のバイトをすることになりました。」

-大学を卒業後は?

「家の染めの会社に入るか?そのまま自分に何かするか?といろいろ悩みました。染めの業界が当時、全然どん底だったので、結局、そのまま水商売の世界に入りました。ホストしたり、祇園のクラブで黒服をしてたりしていました。21~25歳頃までですね。それから働いてた所のママが結婚するということで、店を閉めることに。そして店の知り合いに紹介してもらった店へ転職することになりました。それがウルトラマンのレストランです。」

 

- ウルトラマン?

「昔、六地蔵のMOMOにウルトラマンのレストランがあったんです。知り合いが「そこの経営権を買ったから店長してくれないか?」って言ってくれて、そこでお世話になることになりました。ウルトラマンのショーを楽しみながら食事したり、握手会があったりってレストランでした。当初はジャパンアクションクラブの人にしてもらっていたが、人件費削減で僕がアクションの訓練を受けてウルトラマンをすることに(笑)。養護学校の夏祭りとかにも出張で行ったりしていましたね。でもウルトラマンのテレビ放送が終わってからは、お客さんが激減して店を閉めることになりました。それが29歳の頃です。」

-次に何をしていたんですか?

「その頃、実家の染めの会社が飲食事業として焼肉屋をしていたんです。今でもあるんですが北白川の『おおた』って老舗なんですが、それのフランチャイズをしていたんですよ。親父が声をかけてくれて焼肉屋の店長をすることになりました。焼肉屋をしながら、夜は自分で祇園のバーを3年ほどしました。それから焼肉屋がうまくいかず、その物件を処分することになり、自分で独立することにしました。」

- 独立して?

「四条烏丸で自分で焼肉屋を32歳にオープンしまた。高級焼肉を継承しながら、低価格で美味しいお肉をってコンセプトでしたね。その頃はラーメン屋をすることは全く考えてなく、食べていただけです。その焼肉屋が最初は凄く調子が良くて、すぐに2号店もオープンしました。その時に2号店で店長をしてもらってたのが現・豚コングの白橋です。しばらくすると2号店の方はあまりうまくいかなくなっていき、ある日ランチをし始めました。夜の『やきしゃぶ』で使ってた胡麻ダレをワカメスープとかの鶏ガラスープで割ったら『あれ、これ担担麺に近い味だな?』って思い、その当時、担担がすごく流行ってた頃だったので、『ちょっと面白いかな?』ってことでランチで担担麺を提供し始めました。麺は当時は松葉屋さん(公式HP)。使ってみて知ったんですが、偶然に担担さんの麺と同じ製麺所でした。それが麺に関わるようになった初めでしたね。35歳の頃のことです。その担担麺が予想以上に反応が良くて人気も出てきて、焼肉の方は下がっていってたんです。」



-そして?

「ある時、棣鄂の社長を昔の友人に紹介してもらい、そこから棣鄂さんに麺を注文していくことになりました。それから伏見の方に担担麺屋をオープンすることになるがなかなかうまくいかなくて、途中からラーメン屋をすることにしました。屋号は『麺屋あかり』でした。結局、そのままうまくいかず、それから木屋町の方で麺屋 中野をすることになりました。鶏豚の白湯とかしていましたね。その頃に拳さんや極鶏さんとコラボをさせてもらったりもしました。この時にまた白橋(現・豚コング店主)が戻ってきて働いてくれていました。でも最終的には全てうまくいかなかったですね。」

 

-全てがうまくいかない?

「麺屋 中野は夜営業が全然だったし、肉って原価がすごく高かったし、ワインとか在庫の問題とかもいろいろあり、そして私生活の問題もいろいろ重なって、もう「全てをリセットしよう」って思い、全ての店を閉めることにしました。それから祇園に戻り、再び黒服をすることになりました。」

 

- 再びラーメンをすることになったのは?

「祇園での黒服の生活が3ヶ月くらい経った頃、昼に時間が余っていたので昼だけラーメン屋を再びすることにしました。それがセアブラノ神でした。」


セアブラノ神(2013年7月8日オープン)


- セアブラノ神?

「新潟のご当地ラーメンとして有名な『燕三条系』を看板商品として提供する店。京都に無いものだし、煮干し文化も当時の京都には無かったです。そして京都の昔からのラーメンには背脂が昔からありましたから。一度、高槻の八海山さんに食べに行って『これは面白いな』って思い、棣鄂さん拳ラーメン山内店主にも相談し、決心しました。他の選択肢は全く考えてなく、燕三条しか頭になかったですね。」

-屋号は?

「最初は『セアブラノ大魔神』とか候補があったんですが(笑)、最終的にこの屋号で決まりました。」

 

- お客さんの反応は?

「当初は昼営業だけだったんですが、思った以上にお客さんに来ていただいて、営業時間を徐々に延ばしていくことになりました。お客さんが安定してくると、夜の黒服の方は辞めて、ラーメンで生きていくと専念するようになりました。」

 

- ターニングポイント?

「森さんの関西ラーメンファイル(公式HP)で紹介してもらったことですね。あれから一気に世間一般に知っていただくことになり、客層も一気に拡がりましたね。」



- 2号店?

「あの場所(京都市伏見区)は前に知り合いのラーメン屋があったんですが、その方が移転するってことで声をかけてもらいました。まだまだ本店の方がお客さんは多いですね。」

 

- プロデュース店?

「僕の高校大学の友人がカナダへ移住して寿司屋をしているんです。彼がラーメンが好きで『バンクーバーでラーメンしたい』ってことになり、僕がソフトを作って一緒にしていくことになりました。昨年10月にTHE RAMENMANをバンクーバー(カナダ)にオープンしました。」

 

- 違うコンセプトの店も考えていますか?

「他の物件も探しているところです。以前から清湯の店をしたいって考えはあるんですが、ビジネスで考えると学生が多い京都なので白湯の店も考えています。いろいろじっくり考えてるところです。そういうこともあって自分の引き出しを増やすために、最近、大和製麺所のラーメン学校(公式HP)にも行ってきたところです」

 

- 東京進出は?

「いずれはと思っています。こっちが落ち着いてからですね。僕単体で2年くらい乗り込んで行くくらいの覚悟が必要になると思っています。」

- ラーメンに対して?

「僕、ラーメン食べるの好きなんですよ。今でも自分の店以外で毎年400杯ほど食べてるんです。ラーメン好きがラーメンを仕事にできる喜びと申しますか、上手いこと言えないんですがラーメンが好きです。昔は美味しいラーメンに出会うと『こういうものに近づけたい』ってラーメンだけを見ていたんですが、今はそれぞれ美味しいラーメンですので、店がどんな感じか、オペレーションや接客も含めて見るようになりました。自分もお客さんだけでなく、同業者、諸先輩方に店に足を運んでもらえるような店をしていきたいなって思っております。今はラーメン食べることと、作ることが生きがいです。」



<店舗情報>

セアブラノ神

京都府京都市中京区壬生相合町25-4 デイスターアベニュー 1F

公式Twitter:https://twitter.com/itamaenakano

 

(取材・文・写真 KRK 平成28年3月)